いろいろなことを教えてくれる夢のお話

気づけば1月もあとわずか。ついこのまえお正月だったのに、とも、お正月はずっとまえ、とも思うし。年明けはいつもそんなもんである。

そんな中(どんな中)本日は夢の話を。

このサイトを始めたすぐのころにも夢のことを書いていて、そのときの記事はこちら。
ずいぶんまえすぎてなんだかなぁ、と思う部分もあるがどうぞよしなに。

上記記事を書いたときは、スピリチュアルガイドさんとはペンデュラムでの会話であり、こちらから一方的に質問をして、という形だったので、いまとはまったくちがう。

なにかメッセージがあれば夢で教えてください、とは、初々しくもあり、そんな自分がちょっとかわいい。

その後直接お話しできるようになり、なにかあれば声をかけられたりとなったので、夢で教えてとお願いすることはなくなったが、夢でみせてくれるだろうという思いは変わらないので、みたい人は大いにお願いすればいいと思う。

そしてこちらからお願いせずとも、夢でいろいろなことがあるもんだと感じているのでそれを書くことにする。

スピリチュアルの世界に足を踏み入れ、自然と修行のようなことをやらされていたとき、父親に全力で怒鳴りちらしている夢を集中してみつづけたことがあった。

このサイトでもチラチラ書いているが、父親とは幼いころからあまり話したことがなく、こちらの勝手を言うと父親らしいことはなにひとつしてもらったことはなく、いやな目にもあい、とうてい好きではなく、だけれど恨み辛みというほどでもなく、なるべく関わらないでいられたらと冷めた目でみていた。

ここで、親から愛情を感じられないことによるうんぬん、とか、いやな目にあったことによるうんぬん、とかがひどくなかったのは、生まれたときの意識レベルも関係しているだろうし、特に必要な学びではなかったのだろう。(もちろん自分で選んできているので学ぶことはたくさんあった)

修行が進むにつれ、好きではないけど学ぶことがあると自分で選んできたし実際学びはあったしそこは感謝なのだなと思え、彼なりに彼の人生を歩んでいるわけだしと客観視できてきた。

本心から心から、ではないけれど、頭での理解はできてきた、といったところ。

そんな修行の日々の中、父親に全力で怒鳴りちらす夢を何回もみた。

現実の世界で父親に文句を言いたい、正直な思いをぶちまけたい、などと願ってはおらず、そのとき父親はもうまともな話ができる状態ではなく回復しそうにもなかったので、正直なコミュニケーションができなかったのは父娘としては残念だけれどそれも必要な経験なのだな、と思っていた。

その夢を何度かみたあとに、はたと気づいた。

ああ、現実ではできないことを夢の中でやっているんだな、と。これは浄化なのだな、と。

あくまでもあたしの個人的見解であるが。

文句を言ってやりたいとは意識していなかったが、潜在意識ではなにかあり、浄化のうえで必要だったのだろう。

実際このあとくらいから、好きではなかったりいやな目にあった痛みを感謝で包み、心からの感謝となった。

「痛みを感謝で包む」に関連する記事はこちら

というわけで、夢には自分の浄化の作用もある、ということがひとつ。

で、最近も似たような夢をみたのだ。

今回は、父親に大声で諭すようにお願いしている、というものだ。

父親は死んでからわりと夢にでてくるので、なんか言いたいことがあるとか親子らしいことがなかったのでいまさらやりたいのか、などと思っていて、話しかけるが生前と同じで直接となるとあまりしゃべらない。

あのときの怒鳴りちらしているのとはちがうし、あたしの浄化はもう必要ないし、なにもなくなったのでもちろん父親へのわだかまりなどなにもない。

そうはいっても潜在意識に、などとも思ってみるが、ほんとうになにもない。

そこではたと気づいた。

これは父親のためなのだろうと。父親のあちらでの学びのためなのだ。本人に聞いてみるが、いつもと同じでいまひとつ会話にならない。そういう父親なのであちらでも学ぶことが多々あるのだろう。

そういうわけで、登場人物の学びや浄化のため、ということもあるらしい。

もうひとつ。

詳細は省くが、夢の中である言葉をメモをさせられた。

その言葉は日ごろから自分に馴染みがあるようなものではなく、これは覚えておかなければならないんだろうな、と寝ながら思っていて、起きてからその言葉を検索してみたら、その言葉そのままのタイトルのわりと古い漫画があった。

これは読めということなんだろうな、と思いながら、いまとなっては漫画はほとんど読まないし、そのジャンルも馴染みがないのでまだ読んでいない。

ここに書くことになったからには、そろそろ読まなければならないのだろう。

また、これからなにしよっかな、などと考えている中、実に細かい作業をしなくてはならないけどまったくできない夢をみて、そうよね、細かいことはできないあたしよね、などと、あらためて突きつけられるようなこともある。

こんなふうに、あからさまなメッセージである場合もある。

反面、意味深に思えてまったくなにもない場合もあるが。

夢とは、なかなか示唆に富んだものであるようだ。

まったく覚えてなかったり、すっかり忘れてしまったりするが、思い出すことを習慣づけるとおもしろいのではないかと思う。

それを必要なことと気づけるかどうかは自分次第であり、自分を研ぎ澄ますことが大切である。

love & peace & thanks & blessing!!!

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