瞑想をいま一度

鏡開きも終え、今年も無事にお正月行事を終えられたことに感謝している今日このごろ。

さまざまな自粛の中、近所の海岸でのどんと焼きは今年は中止、指定日に持ってくればまとめて焼いてもらえるということでお飾りなどは焼いていただけたものの、なんともさびしいことよ。

そして分散参拝ということで、落ち着いてからお参りしようと思っていた神社への遅い初詣で今年最初で最後(たぶん)のおみくじを引いたら「凶」だった。

久しぶりの「凶」にテンション上がって大よろこび。

なにごとにも慎重に気を引きしめ過ごしていきたい所存。(すぐに忘れる自分が愛おしい)

本題のまえに、またまたうれしいご報告をいただいたのでVOICEページを更新。
(数日前に更新したので、すでに読んでらっしゃるかたもいるかもしれませんが)

これまで季節のエッセンスを何度かご利用いただいていて、今回初めて個人用をお作りするセッションをさせていただき、ご丁寧にそのご報告をしてくださいました。
掲載にも快くご了承いただいて、心より感謝いたします。

さて、本日はずっとまえにチラッと書いたことがある瞑想についていま一度。

以前書いたことと重複することが多分にあろうかと思うがご容赦を。

以前書いた記事のリンクを貼ろうとしたら画像がでっかく表示されるなどうまくいかないので貼らずにおく。読みたいかたはお手数ですが「瞑想」カテゴリーにて探していただけたら。

このサイトでもいろいろな記事でチラチラとでてくる「瞑想」。

ここ数年ではマインドフルネスが注目されたり、お寺に座禅に行く人が増えたりもしている。

瞑想、マインドフルネス、座禅、厳密にはそれぞれちがうのだろうが、あたしはその定義などを勉強したわけではないので、そういう情報は別のサイトなり人におまかせする。

どれがいいかは人それぞれだろう。やりたければ自分にしっくりくるものを選べばいいのだと思う。

あたしは「瞑想」がしっくりくる。

しっくりくるといっても、完全に我流なのだが。

以前の瞑想の記事では「アセンションに必須かも?」みたいに書いた。

魂としての進化の先に次元上昇、アセンションがあるわけで、となると、魂の進化に瞑想は必須なのか?という話だ。

これはそうでもあるしそうでもないのだろう。

いまとなれば、進化の過程も人それぞれなので、すべての人に必須である、とは思わない。

今生でまったく瞑想していなくても、時期がきてアセンションした、などということもあるはずだ。

あたしにとってはとても役立ったことはまちがいなく、いつの間にかやらされていたから必須だったようだ。

リラックスするため、休息のため、思考から離れるため、エネルギーとしての本来の自分を感じるため、「いま」を感じるため、これまた人それぞれなのだろう。

あたしにとっては、当初は思考から離れるため、とりわけ頭でグダグダといろいろなことをずっと考えているクセをなくすためには、非常に役に立った。

そして「いまここ」への意識が根付き、また、それを実感するためのものでもあったように思う。

もちろん、ただ単に頭をからっぽにすることは心身の休息にもなり、すっきりして気持ちいい。

そのうちちょっと不思議なことがあったりしたが、基本的には物質的な日常を離れ、ひとつのエネルギーとしての本来の自分に還る時間、になった。

平行して自然と内省・内観もやらされていたが、瞑想しているおかげでやりやすかったのではないかとも感じる。平行してやっていたので瞑想していなかったら、という検証はできていないわけだがそう確信している。

平行していたのでなにがどうやらだが、思考がシンプルになっていき、「ま、いっか」と気楽になれたのも、瞑想が寄与している部分は多分にあるのではないかとも思う。

とかなんとか言っているが、要は気持ちいいからやっていたのである。

なにもなくなって常に瞑想状態なのでもう必要はなくなったのだけど、いまでも物質的ことがらが混んだりしたときは、一切の情報を遮断してエネルギーとしてだけの自分を感じるためにやることがある。気持ちいいから。

進化の過程のどういう段階にあるかでちがってくるが、多くの人にとって、常に頭でぐるぐる考えていることからちょっと離れることを目的にやってみるといいのではないかと思う。

現代人は頭で考えていることがたくさんあって、ハイヤーセルフやスピリチュアルガイドからのインスピレーションを得にくかったり、直感・直観と思考の区別がつきにくかったり、考えすぎで頭とハートが分離していたり、そういうことが多い。

たまに頭をからっぽにすることは、そういったことから離れて宇宙に在るひとつの魂としての自分に還る時間となる。

今生の日常のあれこれから少し離れる時間をもつことは、アセンションや進化に向けてうんぬんは置いておいても、心身ともに浄化となるだろうし脳が休まる。

やりかたとしては、身体の力を抜いてなにも考えずにいるだけだ。

立っていても座っていても横になっていても、好きな体勢でいいと思う。横になるとたいてい寝てしまうので、長くはできないかもしれない。長い時間したければ座ってがいいだろう。

なにも考えない、ということがなかなかできない人も多い。

頭をからっぽにできない場合は、自分の呼吸だけに集中する、どこか身体の一部だけに意識を向ける、など、雑念が浮かんでくることを阻止する。

エネルギーとしての自分がいまここに在る、というだけの時間。

それでもできないなら合わないのかもしれないので、無理することはない。

じっと座ったりしての瞑想はどうにもできない場合、ちょっとした日常の中でそれっぽいことができる。

散歩のときに地面を踏む自分の足の裏だけを感じてみる、食事のとき口の中の味覚だけ感じてみる、深呼吸のときは吸って吐いてだけを感じてみる、などなど、生活の一場面で身体の一部分だけに集中してみると、それは思考から離れ「いま」を感じる時間となる。

瞑想とは厳密にはちがうが、考えすぎのクセをなくしていくことの役には立つ。

もうひとつ、瞑想の代わりになること、というのがあるようだ。

セッションをしていて、あるかたはピアノを弾く、あるかたは一心不乱に踊る、というのがその人にとっては瞑想代わりになるとのことでお伝えしたことがあった。

これは人によってなので万人に当てはまることではないだろうが、楽器を弾く、踊る、写経をする、絵を描く、プラモデルを作る、などなど、やっている最中になにも考えずにいられること、というのは瞑想の代わりになりそうだ。

まえの記事にも書いたが、瞑想は危険なことにならないともかぎらない場合があり、霊媒体質の人、エネルギーに敏感な人など、場合によってよろしくない霊が入ってきたり関与してきたり、精神的によろしくない影響を受けることがあるようだ。

これまた人それぞれなので、すべてがすべてそうではないし、霊媒体質じゃなくてもよろしくないことがある場合もあるだろうから、自分を注意深く観察することも必要。

そういう気がある人は、まずは自分をプロテクトすることが先決かもしれない。

参考記事はこちら。

瞑想は、忙しかったり、暇だったり、どんな人でもやってみると、頭の休息になるのはまちがいない。

合う合わないもあるので無理にしろとは言わないし、それぞれの自由なのだが、こうして記事にちょこちょこでてきたり、あたしが書こうと思うのだから、人間にとってそこそこ必要なことなのではないかと思っている。

お金もかからず自分ひとりでできる最高のヒーリングである。

love & peace & thanks & blessing!!!

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