先日ふと、とても幸せだな、と感じ、なんとなく自分のいままでの人生をざっと振り返り、なんだかんだあったけどとても楽しかったな、と思った。
あら、あたしそろそろ肉体からでるのかしら、と、今生終了を予感したが、どうもそうではないらしく、この器にはまだがんばってもらわねばならないようだ。(たぶん)
肉体からはまだでないようだが、でるときにこう思えていたら、それこそなんと幸せだろう、と思ったのである。
そこで感じることをつらつらと。
いつものように、
「目の前に広がる世界は自分が作っている」
「すべての答えは自分の中にある」
なので、幸せか幸せでないか、というのは、自分の感じかた、捉えかたでどちらにも転ぶ。
まったく同じ人生を歩んでいる二人がいたとして(そんなことはないのだが)、かたや幸せだと思っている、かたや不幸だと思っている、ということがありえる。
幸せか幸せでないかは、自分の意識の問題であって、外の世界は関係ない。
家族や環境や会社や友人関係とか、そういうことは関係ない。
あたしの人生はごく平凡だ。
裕福ではない家に生まれ、物心ついたときには両親は不仲で、父親からいやな目にあい、ごく幼いころから冷めた子どもであり、夢や目標はなく、学業もぱっとせず、生意気だと上級生に呼びだされたりクラス全員から無視されたり、だけれど友だちと笑い転げたり、独自のおしゃれを開発したり、淡い片思いをしたり、痩せたいと言いながらジャンクフードを食べまくったり、10代最後の年に死ぬかと考えてみたり、これといってやりたい仕事もなく、誘われるまま働いた仕事が案外楽しかったり、深夜までの仕事がつづきへとへとで車が轢いてくれないだろうかと思ったり、友だちと夜明けまで遊んだり、吐くほど飲んだり、ぼちぼち恋愛をして。
楽しくて悲しくてさびしくて、笑ったり泣いたりしながら平凡に生きてきた。
要はだれにでもあるように、それなりに辛いことや痛みや楽しいことがあって、いまがある。
いろいろなそのときの「いま」を経て、いまがある。
いまがほんとうに幸せだったら、過去の辛さや痛みを「感謝」で包むことができる。
過去の辛さや痛みをなかったことにするのではなく、たしかにあったこととして向き合い、そこから学んだことに納得し、その経験ができたことを感謝し、そのときの感情を癒し浄化する。
あたしが抱えた辛さや痛みは、起こった事実としては消えないし消せないが、それを感謝で包むことができたのだな、と思っている。
これまでの歩み、経験のひとつひとつがいまにつながっているわけで、いまがほんとうに幸せであるならば、辛かったことや痛みがあった過去も幸せなのである。
「あのときは不幸だったけど、いまは幸せ」ではなく、「あのときもいまも幸せ」なのだ。
わかっていただけるだろうか。
楽しかったことも辛かったことも痛みも、ひとつひとつのできごとが、自分が経験してきたこととして、ありがたく尊く愛おしい。
関わってくれた人、モノ、コト、見てきた景色すべてが、ありがたく尊く愛おしい。
このような心持ちになるには、それぞれ手放すものがたくさんあるだろう。
なによりも「そのままの自分」を知り、「そのままの自分でいい」と受け容れ、そのうえで自分の中にある不要な固定観念や思い込みを手放し、自分から自由になって宇宙にゆだねていくということだが、これがなかなかむずかしいのはこれまでもたびたび書いているとおり。
参考記事はこちら
幸せか幸せでないかを決めるのは自分だ。
どのような環境にあろうとも、自分が幸せならばだれがなんといおうと幸せだ。
幸せはだれかやなにかがもたらしてくれるものではなく、自分の意識次第である。
多くの人が、いま「幸せだな」と感じて、生きてほしいと心から願う。
多くの人が、肉体をでるときに「幸せだったな」と感じて、次に向かうことができたらと心から願う。
そう感じる人が増えるよう自分にできることがあるならば、全力でやりたいと心から思う。
love & peace & thanks & blessing!!!