「恥」を思う

またまた間が開いてしまった。いつものように痛恨の極み不徳の致すところ。

今年に入りいろいろなタイプの文章を書くことが増えて、日本語の奥深さを楽しんでいる中、そういえばあたし冠みたいなものを頭にのせている。(完全に正気です)

お正月が明けたくらいに気がついたら頭にのっていたことをご報告申し上げます。(「せ〜の、知らんがな〜」とまた言いますか、そうですか)

胸には愛の石と愛の雫、頭には冠、これが一般には目に見えなくてほんとうによかったと思う。見えていたらなかなかパンチがある中年女である。まあ、見えていたらそれなりに楽しむだろうが。(なんの話)

さて、本日は「恥」について考えてみたい。

ひとことで「恥」といってもいろいろであり、その種類は多岐にわたる。

初めての人と話すのが恥ずかしい、人前で話すのが恥ずかしい、注目されるのが恥ずかしい、

人前で盛大にコケて恥ずかしかった、お昼に食べたおにぎりの海苔が歯についていたのを夜になって気づき恥ずかしかった、こちらを向いてにっこり会釈されたのでにっこり返したら自分の後ろにいる人へ向けてだと気づき恥ずかしかった、

こんなことはよくあることで、日常の恥ずかしエピソードだ。

あたしも、どうしても乗らなくてはならない電車にドアが閉まる寸前で駆け込み、走りに走った足をドア下に引っかけ、ドア付近に立っていたうら若き青年の腰に、ラグビーやレスリングのタックルのように勢いよく思いっきり抱きついてコケずにすんだことがある。

そのあとの電車での時間は地獄である。

走り込んできた妙齢の女に勢いよくタックルされた青年。倒れないでいてくれてありがとう。

それ以来、時間に遅れようが電車には駆け込まないとかたく誓った。そしてあたしのタックルもまだまだだと練習に励んだ、というのは嘘だが、若き日の甘酸っぱい思い出。

あたしの恥ずかしかった話はどうでもよくて、別の側面の「恥」について。

上記のように日常的に恥ずかしかったできごと、などとはちがい、人生に染みついている、人格に影響を与えているほうの「恥」。

意外に思われるかたもいるかもしれないが、「恥」のエネルギーレベルは罪悪感や無気力や恐れよりも低い「20」だ。死にもっとも近いレベルである。(デヴィッド・ホーキンス著「パワーか、フォースか」より)

それはあらゆるネガティブな感情へと派生する。根底にある「恥」が、罪悪感や怒りとして現れたり、もちろん自尊心は低く、ときには残酷なことを平気でできてしまうなど、なかなか危険である。

感情が歪み心の健康を害し、そこから肉体の健康を損なう場合も多いだろう。

怖がらせるつもりはなくて、「恥」はそのくらいのものであり、できれば手放したいものであるという説明。

恥が根づいてしまう理由も根づいている程度もいろいろであり、ちょっとやそっとの内省・内観では拭えないものも多かろうと思う。

神経障害だとか心の病とか、そういったものにまでなってしまっている場合はしかるべきセラピーなどが必要であり、ひとり悩まず助けを求めることをおすすめする。

それも今回の人生での必要な経験であり必要な学びだが、そういったことを心底納得できる心境なら心の病にはなっていない。

残酷な人格であるなど、そこまでではないながらも「恥」が生きにくくしていることも多々ある。

「自分が恥ずかしい」という思い。

それは外見のコンプレックスかもしれないし、出自のコンプレックスかもしれないし、能力のコンプレックスかもしれない。

なにげないひとこと、聞こえてきた会話、言葉や直接的な暴力、環境からもたらされたことでの思い込みがあるのかもしれない。

自分という存在への恥。

上にも書いたとおり、それはさまざまなネガティブな感情へと派生していて、根底に「自分への恥」があることが原因だと気づかない場合もあるのではないか。

どんなときも「すべての答えは自分の中にある」ので、なぜ自分を恥ずかしいと思っているのか、も、自分の中を深く深く見つめれば原因があるはずだ。

そして、自分と自分、自分と他者を比較して判断している、優劣をジャッジしている、ということもあるだろう。

結局のところ、自分で気づき心から納得しないと手放せないものではあるが、声を大にして言いたい。

あなたは恥ずかしい存在などではない。

どのような容姿であれ、どのような出自であれ、どのような環境であれ、どのような能力であれ、尊くて愛おしい存在である。

だれがなんと言おうと、自分を恥ずかしがる必要などない。

自分で選んできた人生を、堂々と楽しんでいいし、幸せになっていい。

人はみんなちがってあたりまえで、いろいろな人がいて、だれひとりとして恥ずかしい存在ではない。

そんなことはみなさんよくよくおわかりかと思うが、それをぜひ自分にも適用してほしい。

もう一度言う。

あなたは恥ずかしい存在などではない。

あたしが保証する。

love & peace & thanks & blessing!!!

「恥」を思う」への6件のフィードバック

  1. いつも楽しい内容をありがとうございます。

    恥ずかしい、という感覚を中年になってからあまり感じなくなっているのですが(それもどうかと思いますが)緊張することはあります。
    恥ずかしい、と緊張とは違いますよね?
    自分の中に恥ずかしい、が根底にあるのか知りたいと思ったのですが、恥ずかしいが根底にあると例えばどういう思考になるのでしょうか?
    ちらかった愚問ですみません。

    1. はすらいすさん、
      コメントをいただき、ありがとうございます。

      恥ずかしいと緊張は似て非なるものかと思います。
      緊張は、これから起こることへの不安や恐れ、うまくやりたいという高揚、などなど複雑な感情が入り混じったものですね。
      恥ずかしいは、ただただ恥ずかしいです。

      この記事での「恥」については、「自分が恥ずかしい」ということで、自分自身の存在を恥ずかしいと思っている、ということです。
      たとえば、外見や出自のコンプレックスが一般的よりもとても強くて、「こんな姿の自分が恥ずかしい」「こんな自分は消えてしまいたい」とか、
      壮絶な体験(いじめや性的虐待など)をしたことで、「自分は汚らわしい」「こういう体験をした自分が恥ずかしい」などなど、
      とても強く自分のことを恥ずかしく思っている、その恥がもとでとても強く自己否定していて自己肯定感がまったくない、というような場合です。
      それはときに消えること(自死)を選んでしまうほどに。
      そういう意味でも「恥」はもっとも「死」に近い感情と言えるのでしょうね。

      この記事をお読みになってこういうご質問をしてくださったはすらいすさんは、ご自身の根底に「恥」はそうないのではないですか。
      自己否定があったとしても「恥」がもとではないと思いますよ。

      このようなお答えで大丈夫でしょうか?

      コメントありがとうございました。

      1. いつもながらとてもわかりやすい説明をしていただきありがとうございます。
        どうやら私の自己否定の根底は恥、という感じではなさそうなことがわかりました。
        どうもありがとうございました。

        1. お返事をいただき、ありがとうございます。

          根底に恥があるととても大変だと思います。
          「あなたは恥ずかしくなどない」と、抱きしめて回りたいくらいです。(迷惑かもしれませんが)

          はすらいすさんの根底に「恥」がそうなさそうでよかったです。
          とはいえ自己否定がおありとのこと、そのままのはすらいすさんでいいんですよ。
          自己否定につながる固定観念や思い込みが手放せるといいですね。

          ありがとうございました。

  2. 》「あなたは恥ずかしくなどない」と、抱きしめて回りたいくらいです。(迷惑かもしれませんが)

    こんな表現をされるところがとても好きです笑 と一言いいたくなりまして。
    お返事にお返事を重ねてすみません。
    私も自分を抱きしめられるようになる日が来ることを楽しみにします。

    1. はすらいすさん、
      お返事をありがとうございます。
      恐縮していただかなくても大丈夫ですよ、やりとりは楽しいですから。

      そして好きだと告白いただいて(笑)とてもうれしいです。
      そんなことを言っていただけるなんて、これからも書いていく力になります。
      ありがとうございます。

      自分を抱きしめられるようになりますよ、きっと。
      自分なんですからほんとうはとても簡単なんですが、かたやとてもむずかしいものでもありますね。
      はすらいすさんが自分を抱きしめられるよう、心よりお祈りしています。

      ありがとうございました。

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