前々回の記事(note更新お知らせ除く)で高次元存在と話していて感じたことを書いたのだが、最後のほうにでてきたことを本日は。
ちなみに前々回の記事はこちら
ここのところ「自分を愛する」「自己受容」関連の記事がつづいたが、まあほんとうに、自分を受け容れることのむずかしいことよ。
これまでも度々書いているが、あたしは自分に興味がなかったからか自分を知ったらすんなり受け容れられたので、むずかしくてむずかしくてとても大変だった、という経験としては書けない。
とはいえ、自分に興味はなくともコンプレックスみたいなものや、不得意なことはあったわけで、それについては「やだな」「こうだったらよかったのに」「できないと思われたくない」みたいなことは意識していたり無意識だったりで自分の中にあったと思う。
そういうものを手放せたのは、自分の中にある固定観念や思い込みを探り特定したからだが、再三書いてるように「宇宙の心理」を納得できるかということも大きい。
特に、
「自分の人生で起こることはすべて必要な経験である。そこから学ぶ必要があるから経験している」
「目の前に広がる世界は自分が作っている。すべては自分の意識次第(捉えかた次第)である」
これらを心底納得できるか。
「すべての答えは自分の中にある」ことを納得できずに、外ばかりに答えを求めていてはなかなかむずかしいだろう。
いつも書くように、もちろんそれがダメだということではない。いまはそうであるというだけで、そのうちすんなり納得できるときがくるかもしれない。
結局のところ、経験しないと納得できない場合が多いだろうが、実は経験しているけど気づいていない、ということも多いのではないか。
自分にとっては悲しかったり辛い体験だったが体験したからこそ学んだことがあった、自分が捉えかたをちょっと変えたら周りが変わった、みたいな経験は、だれしも少なからずあるのではなかろうか。
そこに気づけるかどうかは、やはり自分をきちんと見つめているか否か、観察しているか否か、ということだろう。
話が逸れてしまったが、自分を受け容れようと思うときに、自分ができないこと、不得意なこと、ダメだと思うところなどを「認める」だけで、内省・内観や手放しなどは置いておいて、ちょっと楽になるだろうと思うのである。
「認める」というのは、「自分は○○ができないからダメ」ではなく「自分は○○ができない」とだけ認識するということだ。
人間だれでも、できることできないこと、得手不得手があってあたりまえで、それでいい。
いろいろなことができる器用な人もいるが、すべてのすべてが完璧な人などこの世にいない。
できないことがあってあたりまえ、自分はできない、というだけだ。
できないことを「なんでそんなこともできないんだ」と指摘されて落ち込んだりするのは、期待に応えられない自分への悔しさ、そんなこともできない自分への情けなさや怒り、などがあるからだろう。(指摘された相手の言いようなどへの怒りはまた別の話。)
できないと認めていると、「そうなんす、自分できないんす。わっはっは。」となる。
たとえば卵焼きを作られないとする。
「卵焼きも作られないのぉ?」と言われ、卵焼きも作られない自分は主婦失格、きれいな卵焼きを作られなくて子供たちに申し訳ない、と落ち込む。またはムッとする。
かたや、「そうなの下手なの。一生作る気なし!わっはっは。」だと、こっちのほうが自分が楽である。
仕事上のことで上司から言われた場合笑ってられないだろうし、求められればできないことでもやらなくてはならないだろうからなかなかこうはいかないが、少なくとも「できなかった自分」で落ち込むことはない。(自分の得手不得手をざっくばらんに話せて適材適所で仕事をさせる企業が増えることを祈る)
できると思っていたことができなかった、となると、「自分はこれができないんだな」とそのときに認める。できない自分がダメなのではない。自分ができないことをひとつ発見しただけだ。
あたしもかつては、できないと思われるのは心外だったり、できないと言われて抵抗して勝手に落ち込んだりしていたが、できないことをできないと認めたら、ちょっと笑えるできごとになった。
できないことだけではなく、自分がダメだと思う部分でも応用できるだろう。
これまでも書いているように、ダメだと思っている原因の固定観念をゆるめ手放し、ということで楽になっていくものだが、まずはそのダメだと思うところを「あたしってそういうところがあるのよねー」とだけ認める。
そういうところがダメなんだ、ではなく、受け容れなきゃ手放さなきゃ、でもなく、そういうところがあるのよねー、だ。
できないことをたのまれたなら、「あたしできないんす、ごめんなさい。だれか得意な人にお願いして。」、できないことを指摘されたなら、「そうなんす、できないんす、わっはっは。」だ。
自分ができないこと、ダメだと思うところを認められたら、他者へもやさしくなれるだろう。
もともと「みんなちがってあたりまえ」なので、自分と考えがちがったり、やりかたがちがったりする人に腹を立てるのはお門違いなのだが、自分ができないこと、ダメだと思うところを認める、ということは、他者のそういう部分も認める、ということになる。
なんでそんなことができないの、それがあなたのダメなところだ、などではなく、そんなことは得意じゃないのね、そういうところがあるんだね、になる。
認めるということは、向上心がなくなる、とか、がんばる気力がなくなる、ということではない。
認めたうえで、できなかったり得意でないことをできるようになりたい、上達したい、みたいなことであれば大いにがんばればいい。がんばったらできるようになるかもしれないし、やっぱりできないかもしれない。
どのような結果であっても、自分がやると決めてやったのだから、やったことに意義がある。できるようになったらすばらしいし、できなかったら「やっぱりできないんだな」と再認識するだけだ。
認めたら取捨選択できる。これはがんばる、これはいいや、と。
完璧主義は辛いことが多いだろう。
すべてを完璧にしたい心意気はすばらしいし、それがダメだということではないが、できない自分が許せない、ということは、できない他者も許せないことが多いだろう。
自分に厳しい人生が計画、という場合もあるだろうが、あたしからすると「さーせん、許してやってください」だ。
ちょっと肩の力を抜いて、できなくてもOK、完璧でなくてもOK、と気楽になれたら、人生はもっと楽になる。
love & peace & thanks & blessing!!!