好きにしろと言われて思うこと

気づけば11月ということで、先月は記事を1本しか書いておらず痛恨の極み不徳の致すところな中、タイトルどおり思うことをつらつらと。

今年は(も)個人的に大いに変容したのだが、なにかの記事に書いたようにスピリチュアルガイドさんたちの守護が離れたことは、そんなことがあるのかと驚愕したできごとだった。

なにせ、人生計画(ブループリント)に沿う人生になるよう導いてくれる存在たちの手から離れたのである。この先のあたしの人生はどうでもいいのだろう。

基本的に我々すべての活動体にはスピリチュアルガイドがいて、それぞれに仕事をしている。

スピリチュアルガイドさんたちと話せるようになって以降は、いろいろと質問したり相談したり学ばせてもらったり、楽しく会話してとてもありがたく思っていた。

そのみなさんがある日突然卒業したのだ。急に放り出されたような気分になったが、それでどうにかなるような精神状態でもないので、ふふ〜んと受け容れるのみ。

その後もなんだかんだありながら(なんだかんだは4月〜8月くらいの記事参照のこと)、スピリチュアルガイドチームのみなさんではなく関与してくれる高次元存在がいたり、ちょこちょことお話しさせてもらったりしているが、初夏くらいからは自分のことを聞いてみても「好きにしろ」としか言われない。アドバイスもなくなったということのようだ。

それはそれでもちろんいいわけだが、一度指針というか道標というか、そういったものをもらえる存在ができてしまったが故に、「好きにしろ」と言われると、ただでさえなにもないのに、ますますなにもないものだと思う。

それによってとまどったり迷ったりすることもないのだが。

で、なにが言いたいかというと、スピリチュアルガイドと話すなんて考えたことすらなかったずっとずっと昔から、あたしは好きにしているのである。

幼いころから放任してもらって好きにしていたし、思春期から若いころも常識非常識や流行り廃りなどもあまり気にせず好きにしていたし、人生におけるわりと重要なことがらも好きにしていた。

なまじガイドさんと話せるようになったもんだから、ここ数年はついつい聞いていたりしていたが、なんのことはない、好きにしていた昔と同じだ。

昔の自分といまの自分はまったくちがうし、とてつもなく大変容しているのだが、「好きにする」ということでは同じなのだ。

それでなにを思うかといえば、みなさん「好きにしろ」ということだ。(乱暴)

丁寧に言うと「自分で判断して決めたことはそれでいいじゃないですか」ということ。

もちろんそこには、自分を揺るぎなく信頼信用していること、自分で判断して決めたことは自分で責任をとるという覚悟、決めたことが後々ちょっとちがったと思ったとしてもそれも経験と開き直れる精神、どんなことがあっても経験している自分をおもしろがれる心意気、そういったことがあったほうが落ち込んだりすることは少ないだろうが、そんな風に思えなくても自分の好きにすればいいのだ。

周りの人たちやスピリチュアルガイドと話せる場合はその助言、占い師やあたしのような者の助言、あまたある情報、いろいろなものがあり参考になったりヒントになるが、最終的には「好きにしろ」である。

もちろん、自分勝手にわがまま放題暴れ回れという話ではない。すべてに対する愛や感謝や敬意や慈愛などは標準装備のうえでに決まっている。そんなことはわかっている人たちが読んでくれているものと思っている。

もっともっと自分を信じ自分を尊重していいのでは、という話。

幼いころから好きにさせてくれていた両親をはじめ周りの大人たちには感謝しかなく、なにを言われても好きにできていた自分を褒めたい。

結局は昔もいまも好きにしているわけだが、上にも書いたとおり、まったくちがう。

意識や捉え方が変わるとこうもちがうのかとびっくりする。環境も周りの人たちもなにも変わっていない。

自分に興味がなく受け容れようにも自分を知らずやりたいことや好きなことがわからず、ふわふわとなんとなく生きていたときの「好きにしろ」と、

自分を知り自分を認め自分を受け容れ、これまでのすべての経験や関わってくれた人たち、いまここに在るすべてに感謝し、宇宙にゆだねてこの瞬間をよろこんでいるいまの「好きにしろ」はまったくちがう。

内省・内観で自分を見つめさまざまな気づきを得て自己認識して自己受容してネガティブな感情や不要な固定観念を手放して、そのうえで好きにできたらそりゃもう楽しいわけだが、しかしながらそうでなくても自分の好きにすればいいのである。

あなたの人生なのだから。

love & peace & thanks & blessing!!!

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