執着の行方

嗚呼、史上最長の未更新。なんと1カ月ぶり。痛恨の極み不徳の致すところ。(毎度おなじみの)

未更新すぎて、流行りの感染症にかかったのでは、などとご心配くださったかたが1人か2人いたかもしれないが、おかげさまですこぶる元気である。

今月に入ったとたん、わらわらとご依頼が集中してありがたき幸せ。

セッションしてセッションして産卵中のカマキリを観察してセッションしてセッションして産卵後のカマキリを観察して、と楽しく過ごしていた。

そのような場合でも記事を書けるときは書けるわけで、この1カ月はいろんな意味でなぜか書けない日々。要領が悪いだけだが、そんな自分も愛おしい。(開き直り)

少しばかりいるかもしれない楽しみにしてくださっている方々には申し訳ないのだけど、そんなこともあるさねと流れるままに流れている。

そしてセッションのご感想をいただいたのでVOICEを更新。いつもいつもありがとうございます。

そんな中、なにを書こうかしらんと、タイトルを書いたがぜんぜん「行方」ではない予感。

厳密には「その先」ということなのだが「行方」が使いたかった。(知らんがな、という声が聞こえます)

語呂だけなのでどんな内容になるかわからんがご勘弁を。

さて、このサイトでは「すべての答えは自分の中にあるので内省・内観が大切だ」みたいなことを書いていて、生きやすくなるために、楽になるためにおすすめしている。

アセンションや進化という意味でも書いているが、それはこの人生が生きやすく楽になった先にあるものだ。

ネガティブな感情や不要な固定観念を手放すために、自分や他者を受け容れられるように、手を変え品を変え書いているわけだが、これがなかなかむずかしく、できなかったり考え込んでしまう場合も多いのではないかと思う。

できないことやわからないことを考え込んで考え込んで、それが苦痛になるのなら元も子もない。

そこで「生きやすくなること」をもっとシンプルに書けないだろうか、と思った次第。

ここで持ちだすのが「執着」。

辞書をひけば、「執着」とは、ひとつのものごとに固執し捉われること、あるものごとに強く惹かれ深く思い込んで忘れられないこと、などの意味がある。

それはそうでそのままなわけだが、これはもうすべての心のありようなのだ。

なにかに固執して捉われていることはもちろんのこと、怒りや恨みや恐れや悲しみや、はたまた愛情や好意や、そして執着を手放さなくては、という思いまでも執着である。

執着というと、なんというか粘着質なものを感じるむきもあろうが、それだけではなく生きているということは常になにかに執着しているということ。

なので、あるのがあたりまえで、物理次元に生きるとはそういうことだ。

人それぞれ執着の強弱はあって、強の人は生きにくいことと思う。

そしていつものように、強かろうが弱かろうが、それが人として魂としての優劣などではない。

生きやすくなるための内省・内観にしても、「楽になるために自分を掘って掘って掘りまくらなければならない」と強く思いつめていたら、それは強い執着である。

生きやすくなるためには内省・内観、と声高に書いているサイトなのに、こんなことを書くのはどうかとも思うが、方向がちがうと執着を強めることになるのでは、と思ったので書いている。

「じゃあどうしろというの?」という話なので、シンプルに書こうとしている。

もちろん、内省・内観をしていろんなものを手放して軽くなっていっている人たちは楽になっているだろうから、この記事は参考程度にしてもらって、主に内省・内観がどうもうまくいかない人向けになる。

あるのがあたりまえではあるのだが、執着しないととても楽だ。

執着しないということは、自分のことも他者のことも、自分の感情も、起きたできごとも、そのままを受け容れるということ。

自分でそれについて評価せず判断せず、そのままを受け止めるだけ。

悲しかったら「自分は悲しいな」とだけ受け止める、腹が立ったら「自分は腹を立ててるな」とだけ受け止める、なにかを恐れたら「自分は恐れてるな」とだけ受け止める。

起きたできごとも「こんなことがあった」とだけ受け止める。

それを評価しない。判断しない。考え込まない。

自分で評価するから捉われる。ますます深く重い感情となる。それは強い執着となる。

自分、自分の感情、他者、人生で起こるできごと、評価せずに判断せずに受け止める。

いま在ること(自分、他者、ものごと、環境などなど)に感謝して、いま在ることに敬意をはらい、いま在ることに慈愛をもって、いま在ることを楽しむ。

なんとシンプル。

それがむずかしい、という声が聞こえてきそうだが、みなさんもっと気楽に生きてほしい。

「執着の行方」というタイトルなので、なんとなく行方っぽいことを書く。

あたしは「無、なにもない」わけだが、それは執着がなくなったということでもある。

なにもない、ということは、なにもないわけで執着もないのだ。

執着とは固執というだけではなく、あらゆる心のありようと書いたが、その心のありようがなくなった。感情がなくなったというのと近いようでちがうのだが、説明がむずかしい。

要はなんでもいいのである。なにがあろうともなんでもOK。

明日磔獄門だ、明日からお地蔵さんだ、明日からカマキリだ、明日から権之助坂48のセンターゆきっぺとしてアイドルだ(ワードが昭和)、と言われても、はいそうですか、なのだ。

誤解を恐れずに書くならば、このサイトは元々、どなたかのお役に立ちたい、人や地球の役に立ちたい、とやっているものだが、執着がなくなったということは、その思いもなくなった、ということである。

役に立つのならこのうえなくうれしいのだが、「役に立ちたい」という思いはない、ということだ。

おわかりいただけるだろうか。

「役に立ちたい」に執着していない、ということ。

なににも執着していないので、愛とか感謝とか敬意とか祝福とか慈愛とかにも執着していない。

だれにたいしても、すべてにたいして等しくあるのが標準装備なので、もう意識すらしない。

無の感覚になったあとのなにかの記事に「自分のちょっと前くらいが人間としてはちょうどいいのではないか」と書いたように記憶しているが、それは多少の執着があったほうが人間らしいだろう、というような意味だ。

人の役に立ちたい、とか、他者に愛と感謝と祝福と敬意を、とか、そういったことを意識して自分はそうあろう、と思っているくらいが(それも執着)、物理次元で人生を楽しめるのではなかろうかと思うのである。

だからといって、いまあたしが楽しくないということではなく、超絶楽しいわけだが。

「ものすごく自由で気楽で、だけどなにもない。ちょっとくらい執着があったほうが楽しめるのでは。」

「執着の行方」というか、執着がまったくなくなったらどうなるのだといえば、こんな感じ。

これが仏陀が目指した境地なのだろうが、ご本人によると生前そこまではいかず、どうもあたしのいう「人間としてちょうどいい」くらいだったようだ。

べつにいばりたいわけではなくて、どうなっているのだ自分、と冷静に思うだけだ。

というわけで(どういうわけで?)、内省・内観がむずかしかったり考え込んでしまっている人に、ちょっとシンプルに気楽になってもらえたらと書いたがどうだろう。

いまをそのまま受け止めて受け容れて、気楽に自由に生きてはいかが、というご提案。

love & peace & thanks & blessing!!!

執着の行方」への2件のフィードバック

  1. はじめまして。
    いつも楽しく拝見しながら勉強させて頂いております。
    こちらのサイトに訪問したきっかけは「怒りの正体」でした。
    その時の自分は怒りの塊でしたので、言葉が文字がどんどん吸収される感覚でした。
    ascended master lifeさんの記事を読み進め
    内省・内観を自分なりに進めております。
    私が使ったツールは「葬儀屋のエンディングノート」でした。

    1. aさま、
      コメントをいただきありがとうございます。

      サイトにたどり着いていただき、ご縁があったことをうれしく思います。
      お役に立てているかわかりませんが、記事を読んでくださって重ねて感謝申し上げます。

      内省・内観を進めるにあたってそういったツールをお使いなんですね。
      不勉強なもので「葬儀屋のエンディングノート」を知りませんでしたが、近ごろはいろいろなツールがあるみたいですから、自分に合ったものを使ってみるのはいいかもしれませんね。
      情報をいただき、ありがとうございました。

      今後とも楽しく進まれますように。

      ありがとうございました。

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