内省・内観とエゴ 〜その先の話、最終的には

これまで、生きやすくなるには、楽になるには、進化するには、アセンションするには、みたいなことを書いてきた。

自分の中にすべての答えがある、ということで、結局は自分を見つめるしかなく内省・内観をおすすめしてきた。

また、自分の中にあるいろいろなものを手放すことも。

世の中自分自身で苦しんでいる段階の人が多いのでそんなことを書いてきたが、その先というか、最終的にはというか、ちょっと意識しているといいのではと思うことを本日は。

自分が生きやすくなるために自分を見つめることは、実のところ「エゴ」という側面がある。

「己」が楽になるために、「自分」が生きやすくなるために、という思いがあるから。

スピリチュアルの世界では、あちらこちらで「エゴを捨てよ」と言っているが、このサイトでは自分を見つめよ、と書いている。自己に向かうことはエゴなのに。

そうなのだけど、とことん自分に向き合い見つめたその先に「エゴ=自我がなくなる」がある。

3次元的感情の荒波にじゃばじゃばもまれアップアップしているさなかに「エゴ=自我を捨てよ」と言われてもよくわからないのではないか。

それよりも先に自分の中を整理して手放すものは手放してシンプルになっていかないと、エゴを捨てることはなかなかできないのではないかと思うのだ。

最終的に目指すところはそこなのだけど、そうなるためにはとことん自分を見つめ自分を知り自分を認めて自分のすべてを完全に受け容れて、という段階がないとエゴから自由になることはむずかしいだろう。

自分が楽になり生きやすくなるということは、関わる人たちや周りや地球にいい影響を与える。そういう意味でも、まずは自分が楽になっていくために、ということで内省・内観をおすすめしているわけだが、その先の最終的には自我をなくし他者や地球や宇宙に貢献するのみだ。

人それぞれなので、どのように思っていても自由なのだが、そこのところを意識しているといいのでは、と思う。

自分のために内省・内観をしているのだけど、その先にある自分ではなく他者や地球に貢献するためのこととしてやっている、という意識。

それがあるのとないのでは、なんだかちがうのだろうと感じている。

あたしはもともと自分よりも他者の幸せを願っているタイプだったので、内省・内観しながらも自分が楽になるためにではなく、だれかやなにかの役に立つ自分になるためにやっていた。(いばっているわけではありません)

なので、そのときには「いまはエゴだけど最終的には」とか、そういう意識ではなかった。

「エゴを捨てよ」みたいなことはスピリチュアルの情報として知っていたが、どうすればいいのかよくわからなかったので放っておいた。

実際のところ、自分を掘って掘って掘りまくり、自分を知り自分を認め自分を受け容れ、ネガティブな感情や不要な固定観念を手放すことをやっていると、自分を含めたすべてを俯瞰で眺められるようになっていき、すべてはつながっているということの理解が深まったり、すべてに愛と感謝の心持ちになっていったりと、自ずと自我から開放されていったように思う。

自分の内側を深く見つめ深く探っていると、さまざまなことに気づいたり自然と宇宙のすべてを見つめていたような気もするし、そのうち自我とすべてがひとつになった。

自我を捨てたというよりも自我の意識がなくなった。

あたしの経験だけでの話だし、もともとエゴがうすめだったと思われるので、みんながみんな同じようにはならないだろうが。

結果的に、だれかやなにかのためにという思いで、内省・内観をやっていたのがよかったのではないかと、いまにしてみれば思うのである。

いろいろな段階の人がいるし、それぞれが思うように自由にやればいいというのは大前提。

とにかく苦しくて辛いから楽になるために、幸せになるために、進化するために、アセンションするために、いろいろな理由で内省・内観して不要なものを手放していく。

それぞれの理由があっていいし、なによりも自分の人生が楽しくなるのが一番だ。

だけれど、その先に、最終的には、自我をなくし自分以外の人やものやことへの貢献ということも意識しておくと、すべてにつながりやすくなるはずだ。

あなたはすべてで、すべてはあなたなのだから。

love & peace & thanks & blessing!!!

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