思い込みや固定観念を手放す 〜理想や目標が高いとなかなか大変

これまでもことあるごとに「ネガティブな感情や不要な固定観念を手放す」と書いている。手放すと楽になりますよ、と。

今回はその「不要な固定観念」そして「思い込み」について思うことをつらつらと。

そのまえに、セッションしたかたからありがたいお申し出をいただいたので、ご感想を掲載させていただきVOICEページを更新したのでお知らせ。

VOICE

さて、「不要な固定観念」「思い込み」とは。

それは、育ってきた、生きてきた、時代や環境によって植えつけられたもの。

産まれたときにはそんなものはない。みんながそれぞれ自由だったはずだ。

育つ中で、その時代や環境にそれぞれが影響されていく。それは必要なことでありそこにそれぞれの学びがあるのだから悪いことなどではない。だれにでもあるものだ。

巻き込まれたり反発したり、それぞれが必要な経験をして学んでいく。

その固定観念や思い込みは、ときとして苦しみを生む。

固定観念や思い込みがあっても、なんてことなく楽しい一生を過ごす場合もあるだろう。自分が幸せであれば、そんなこと気にする必要はない。

幸せではない、苦しい辛い、生きにくい、などと思っているならば、これらを手放すとちょっと楽になる。

たしか自己受容の記事で「自分に厳しい人が多い」と書いたが、この自分に厳しいことの多くは、固定観念や思い込みによるものだ。

特に、こうなりたい、ああなりたい、こういう学生時代を送ってこういう仕事をしてこういう人と結婚して子どもは2人で、などと理想や目標がある場合、そこに向かってがんばっている人は自分に厳しくなる。

高い理想や目標を掲げ、がんばれる人ほど自分に厳しい。望みが高いから、そうやすやすと達成できない。達成できないということは「自分はまだまだだ。もっともっとがんばらないと。」と自分に厳しくなるのである。

自分に厳しいと自己受容するのはむずかしくなる。いつも「自分はまだまだだ」と思っていては自分を受け容れることなどできない。

そして自分に厳しいということは、他者にたいしても厳しくなるきらいがある。自分はがんばれるから、がんばれない人もいるということがいまひとつわからない。厳しいので、きらいな人や赦せない人も多いかもしれない。

高い理想や目標があること、自分に厳しいことが悪いといっているわけではない。

理想や目標は生きていくうえでのモチベーションになり、それが達成されずともさらなる努力をつづけられて、その努力こそに意味を見いだすことができるかもしれない。

自分を厳しく律して生きることが今生では必要なのかもしれない。

それが自分だ、と自己受容できて有意義な人生を送る人もいるだろう。

そういうこともあるので、高い理想や目標があって自分に厳しいことはけっして悪いことではない。理想も目標もなく自分に厳しくもなくふわふわ生きてきたあたしからしたら、きちんとしてるな、立派だなと思うわけである。

すっかり自己受容できていて、高い理想や目標に向かって努力して達成するならすばらしいし、達成されずとも自己嫌悪になることなく苦しくもなく幸せであるなら、それもまたすばらしい。

しかしながら、そうして生きているうちに努力よりもなによりも「自分ダメだ。なんでいつもこうなんだ。」と自分にたいしてネガティブがすぎることになるならば、苦しく辛いならば、手放すことを考えてみてはどうかと思うのだ。

高い理想や目標があり達成できず、ひどく挫折したり自分を否定するような場合は、「〜でなければならない」「〜なはず」「〜でなきゃダメだ」みたいな固定観念や思い込みが根深いことが多い。

場合によっては「人生こんなはずじゃなかった。」と自分を全否定である。望んでいた人生になっていないと。自己受容にはほど遠い。それはとてもとても辛いことだろうと思う。

固定観念や思い込みを背景に、他者と自分、理想の自分と自分を比べている、いろいろなことをジャッジしている、ということもあるだろう。

思いどおりの人生を歩んでいるように見える人への羨望や嫉妬など、よけいなネガティブ感情まで生み出す場合もある。

固定観念や思い込みは、時代や環境によって植えつけられる、と書いた。

親の教育方針、愛情不足、周りの大人からのなにげないひとこと、メディアの情報、それはもうさまざまなものによって植えつけられる。

「〜でなければならない」「〜なはず」「〜でなきゃダメだ」と思い込んでいる原因はなんなのか。内省・内観で自分の中を深く見つめると理由が判明するだろう。

子どものころに親からよく言われたこと、地域の風土、学校や会社といった日常の環境など、なにか思い込むことになった原因があるはずだ。理想や目標が高くなった原因も、そこには隠されているだろう。

ここで、以前の記事で書いた宇宙の真理の一部を引用する。

・我々は生まれるまえに人生計画(ブループリント)を決めてきている。
・その人生計画に沿うよう学べるよう生まれる環境を自分で選ぶ。
・人生で起こることはすべて必要な経験である。そこから学ぶ必要があるから起こっている。
・人生計画に沿うようスピリチュアルガイドや守護天使が関与して必要な経験を起こすことがある。

・みんなちがうのがあたりまえである。
・この宇宙に善悪も優劣も正負もない。したがって常識非常識もない。

アセンションに向けて 〜「続」内省・内観のやり方

この宇宙の真理に照らせば、必要な経験をしてそこから学んでいるのだから、達成できなかったことであっても「またダメだった、なんでうなくいかないのか?」とネガティブな感情を抱くよりも「この必要な経験でなにを学んだのか?」と自分に問いかけることができる。

この宇宙の真理に照らせば、みんなちがうのがあたりまえで優劣も正負も常識非常識もないのだから、「〜でなければならない」「〜はず」のように断定することに意味がないとわかるだろう。これは自分だけではなく他者にたいしても。

理想や目標はあっても、それが達成できないからといってあなたはダメなどではない。

もちろん達成するにこしたことはないが、自分で選びチャレンジしたことが達成できなかったからといって落ち込む必要はない。その達成できなかった経験が必要で大切ななにかを学んでいる。

高い理想や目標をもってがんばる姿は美しいが、それにがんじがらめになって苦しんでいるなら悲しい。

固定観念や思い込みは、まずはその観念や思い込みを特定し、そう思い込むことになった原因にたどりつけたら手放せる。

長年思い込んでいることだからそう簡単には手放せないが、思い込みが原因の思考になるたびに「これは思い込みだ」と意識する。

あまりに苦しく辛いならば、高い理想や目標を一旦忘れてみるのもいいかもしれない。

それがありすぎるあまりに、できなかったら激しく落ち込む。それに執着しすぎて、いまのありのままの自分を受け容れることができない。

理想とする自分になっていない、目標が達成できていない、と常に自分を厳しくジャッジしていては自己受容はできない。

いまのありのままの自分を受け容れることをむずかしいと感じている人は多い。

もちろん、固定観念や思い込みがあっても、自己受容しなくても生きていける。

だけれど、苦しいなら辛いなら、その原因は自分の中にある不要な固定観念や思い込みかもしれませんよ、ということだ。

そしてそれらから自由になったら、周りはなにも変わらないのに楽になるし生きやすくなる。

いつものように、なにを選ぶかはみなさんの自由だ。

あたしは経験したから知っている。

自分の中にあるガチガチに固まった観念や思い込みは手放せる。新しい観念で上書きできる。そしてそのうちその上書きした観念すらなくなる。

なんでもOKなのである。

love & peace & thanks & blessing!!!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。必須項目には印がついています *

CAPTCHA