心配の種

人類はとかくなにかを心配している。

地球上で心配事のない人はいないのではないか、というくらいみなさんなにかを心配している。

広く見れば、後進国などでは明日の食べもののこと、飲み水のこと、攻撃を受けている国では明日の命のこと。

日本のような豊かな国でも、仕事のこと、お金のこと、家族のこと、学校のこと、自然災害のこと。

ありとあらゆる心配がある。人間に心配はつきものだ。

しかしながら、あたしは心配しない。現在アセンションを完了しているすべての人がそうなのかは知らないが、少なくともあたしに心配事は一切ない。

本日はできれば手放したい「心配」についての考察。

最初に言っておくと、いつものように心配するのがダメだということではない。手放したほうがラクになるし進化しますよ、ということであってそれぞれの自由である。

このサイトを訪れ記事を読む人はほぼ日本人。明日の命や飲み水や食べもののことを心配しなければならない状況の方たちに、これから書くことは当てはまらないかもしれない。ほんとうは当てはまるのだけど、受け入れる精神状態になることはなかなかできないはずだ。そんなことよりも、ということが多すぎる。

そういう意味では、一般的日本人(を含む先進国の人)向けの考察になるかと思う。

そういった方たちが世界中にたくさんいることは百も承知だし、知らない国の話と目をそらすつもりもない。そういう状況の人たちが少しでも癒されるよう、あたしは毎日祈っている。毎日エネルギーを送っている。

さて、あなたはなにが心配だろう。

病気の家族がいれば心配だし、年老いた親も心配。所属する会社の業績がいまいちなら心配、週末の台風で屋根が吹き飛ばないかしらと心配。

子どもがいれば、それはそれは最大の心配事なのだろうと思う。

そりゃそうなのだが、みなさん心配しすぎである。

考えてもみてほしい。心配しようがしまいが「事」は起こるかもしれないし起こらないかもしれない。わからないことを心配してもしょうがないのである。

たとえば子どものこと。

産まれてからお乳の飲みがよくない、検診にいけば他の子に比べて成長が遅いのではないか、保育園や幼稚園小学校に進めばうまくやっているのか勉強はどうだ、帰りに事故に合わないか人さらいに連れ去られないか、などなど。

思春期になればなにか悩みがあるのではないか勉強はどうだこんな調子で大丈夫なのか、高校生や大学生になれば帰りが遅いがどうしているのか将来どうするのか、などなど。

大人になったらなったで、ちゃんと食べていけているのか仕事先でちゃんとやっているんだろうか結婚はどうするんだ、などなど。

親ならば子どものことは自分が死ぬまで心配であろう。いや、死んでも心配なのである。親とはそういうものなのだろうとは思う。あたしに子どもはいないが想像はできる。その気持ちはわかるのだが。

心配する、ということは不安だということだ。心配の種は「不安」だ。不安だから心配する。子どもだけに限らず、人、もの、こと、不安だから心配する。

いやいや私は子どもの幸せを願っているだけだ、と言うかもしれない。それは大前提だ。あたりまえ。そこに心配があるなら不安が隠されている、ということだ。

子どもの幸せはあたりまえに大いに願い祈ればいい。でも心配は必要ない。

子どもの今の状況をみてこの先どうなるのかちゃんと生きていけるのかと心配する、ということは、子どもの将来を不安に思っているからだ。子どもや環境、社会情勢などの現状をみて不安に思う。勝手に不安になっている。

これは子どもの現状うんぬんではなく、自分の問題だ。自分が勝手に不安になっているのだから子どもは関係ない。

わかりやすいので子どもを例にだしているが、他の人やものやことでも同じだ。

心配=不安は、自分の、周りのエネルギーを重くする。親がそうなら子にも波及する。

子どもを含む他者は、それぞれ魂の計画がありそれぞれに進んでいる。それを尊重し個性を認め否定せずに見守る。

自分を尊重し自分を認め自分を否定しない、他者にたいしても自分にたいしてと同じ姿勢であればいいのだ。

「気にかける」と「心配する」はちがう。

人にたいしてだとすると、大切だから気にかけるけど心配はしない。気にかけていること大切に思っていること愛していることは言葉や態度で表す。きっと大丈夫と信頼し尊重し心配はしない。

成人前の子どもなら、養護・養育するのはあたりまえで、体調や様子がおかしくないかなど常に気にかけるわけだが、そこに心配は必要ない。話して抱きしめて一緒にいるときを楽しく過ごす。

だってこんな現状(社会情勢や地球環境なども含め)じゃろくなことにならない、などと思ったあなた、「こんな現状」というのは不要な固定観念である。なにと比べているのか、なにがろくなことになる現状だと思い込んでいるのか、いま一度自分の内側を見つめてほしい。

「備える」と「心配する」はちがう。

これは人にたいしてや自然災害、環境にかんしてなどに当てはまる。なにかが起こった場合にすんなり対処できるよう物心ともに準備しておく。そこに不安や心配は必要ない。起こったらどうしよう、などという要素はない。起こっても備えているからきっと大丈夫、である。

心配の対象者に一見よくないように思えることが起こったとしても、必要な経験であり学ぶべきことなのだ。そのおかげで自分が学べることもある。備えていたのにひどい目にあうこともあるだろう。それも必要な経験であり学びだ。視点を変えるだけ。

心配=不安の主な原因は「先のことを考える」。

なんども言うが起きてもいないことを考えてもしょうがない。起きてから対処するしかないのである。

備えがあれば対処の選択肢が増えるのでいいかと思うが、心配だから備えるのではなく対処しやすいから備えるだけだ。

親なら子どもの将来のことを考えるのはあたりまえではないか、となるだろう。だから気にかけ備えるのだ。教育費が必要だから備える、興味があることをなるべくやらせてやりたいから備える、健康に育ってほしいから食事を気にかける、なにかあったらなんでも話しやすい家庭環境であるために気にかける、などなど。起こってもいない先のことを考えて心配する必要はない。

ほかの心配事でも同じである。親の介護問題も親が元気なうちに家族みんなで正直な思いを話し合い、うちの場合はどのような形があるのかと備える。気にかけていることを伝える。実際問題になれば手続きなども含め粛々と対処する。問題になるまえに、どうしようどうしよう、などと心配する必要はない。介護が必要になったときにはどうにかして対処するしかなく、そしてどうにかなる。こういったことはとても学ばせてもらえる。新たな経験をさせてもらえることに感謝だ。

心配=不安を手放すにはどうすればいいのか。

これまたいつものようになぜ心配なのか自分の内側を見つめる。不要な固定観念の場合が多いように思うが、これが原因かと意識する。

そしてそのことについて考えない。思考しなければいい。これがなかなかむずかしいのだけど、真理はいつだってシンプルだ。考えなくても必要なできごとが起こるのでそれに対処するだけ。

そしていまの瞬間に起こることを粛々と生きる。

楽しいことをしているなら思いきり楽しむ、ご飯を食べているなら感謝して味わう、ぼーっとしているならただぼーっとする、勉強しなきゃならないなら勉強に集中する、かたづけることがあるなら無心でかたづける。

いたってシンプルなのだ、人生は。

love & peace & thanks & blessing!!!

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