ジャッジメントを手放す

またまた間が空いてしまい痛恨の極み。

以前どこかの記事で、「ジャッジメントを手放すと、なかなか多くのネガティブな感情がなくなっていくと思う」みたいなことを書いたと思う。

本日は、このサイトで再三出てくる「ジャッジメントを手放す」について掘り下げてみる。掘り下げられるかわからんけども。

ジャッジメントとは、主に裁判における判決とか、スポーツなどの審判とか、第三者が判断するというような意味だが、スピリチュアル業界では「自分の価値基準で判断する」というような意味で使われる。

「自分の価値基準」は、持って生まれた性質や性格に、育ってきた環境や周りにいる人たち、関わってきた社会やさまざまな媒体の情報など外的要因が影響して培われていく。

スピリチュアル業界ではなぜジャッジメントを手放せというのか?

ジャッジメントすると、それは怒りや恨みや妬みや恥などのネガティブな感情を生み出し、批判や文句や愚痴となる。すなわち善悪、優劣、上下を自分の価値基準で判断しているということである。

「あの人は〇〇だからダメだ」「この人は〇〇だから私より優れている」「友達は〇〇だから私より劣っている」「あの会社は〇〇だから悪い企業だ」「あんなこと普通なら言わない、私ならこういう言い方をする」などと、自分の価値基準でジャッジする。

誤解のないように念のため書いておくと、ジャッジメントしてはいけない、と言っているのではない。スピリチュアル的に成長したい、進化したいならば手放さないと達成は難しい、というだけであって、それぞれの自由だ。

ま、進化うんぬんを抜きにしても、生きやすく楽になるのでおすすめではあるが。

「自分の価値基準で判断する」の対義語は「ありのままを受け入れる」だ。あらゆる場面で今のそのままを受け入れる。目の前で起こっていることを自分の価値基準で判断しない、ということ。

たとえば上で書いた「あの人は〇〇だからダメだ」の「ダメだ」は自分の価値基準でダメだと判断している。それは批判になる。

ありのままを受け入れたなら「あの人は〇〇だな」で終わりである。感想になる。〇〇だな、というのも自分の価値基準ではあるが、ジャッジはしていない。

ジャッジメントしないと一事が万事そうなるので、ネガティブな感情が生まれにくく、批判や文句にならないのだ。

また、ジャッジメントしないということは、自分と他人、他人と他人を比べない、ということにもなる。自分も他人もそのありのままを受け入れるのだから。

ジャッジメントを手放すとは、すべてのこと、人、もののありのままを受け入れ認めることであり、そうするとさまざまなネガティブな感情がなくなっていき、なにごとも比べることがなくなる。

それは自分も周りもとても楽になる。生きやすくなる。そして人間として飛躍的に進化する。

では、ジャッジメントを手放すにはどうすればいいのか。

あらゆることのありのままを受け入れるだけなのだが、長年かけてできあがった自分の価値基準はなかなか手強く、自分の価値基準でジャッジしてなにかに腹が立ったりイラついたりムカついたりする。だれかに嫉妬したり羨望したりする。

スピリチュアル的にどういう段階にあるかで簡単に手放せたりなかなか手放せなかったりするだろうが、まずはジャッジメントする自分を受け入れること。それがいまの自分のありのままだ。

そして、ジャッジメントしたできごとを眺めてみる。自分の価値基準を見つめてみる。こういう価値基準でジャッジしたなあ、と意識する。そのジャッジには意味がないと理解する。

ネガティブな感情や不要な観念の浄化などよりも、ジャッジメントを手放すのは簡単ではないかと思う。

前者は深く深く内省しなくてはならないが、後者はただありのままを受け入れるだけだから。

ちょっと適切な例なのかわからないが、料理するのが好きな人と嫌いな人がいる。料理するという同じ行為で、真逆の意見だ。それはどちらが正しいとか正しくないではない。あなたは好きなのね、あなたは嫌いなのね、ということで、ジャッジメントは存在しない。まあ好きな人は優で嫌いな人は劣だ、などとジャッジする人もいるだろうが。

すべてにおいてそういうことだ。わかりにくいだろうか。あなたの価値基準と真逆の人がいてあたりまえなのだ。どちらが良いも悪いも正しいも正しくないも優れているも劣っているもないのだ。そのありのままを受け入れてジャッジしない。ほら簡単。

ジャッジメントを手放すと、けっこうびっくりするくらい自由になる。そしてそれは「すべてを赦すこと」につながる。意識レベルが上がることまちがいなし。

love & peace & thanks & blessing!!!

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