サイキック能力がないから人生はすばらしい

更新が滞って痛恨の極み不徳の致すところ。

なんといっても3月5日の啓蟄に「本日啓蟄」と書けなかったことが近年まれにみる痛恨の極み不徳の致すところ。

みなさんそんなことは気にせず暮らしていることと思うが、「啓蟄」はほんとうに土の中にいる生きものたちが動きだすのだ。

啓蟄の次の日にあちこちで土が盛り上がっているのを観察できる。啓蟄に土の中の生きものが動き出していると確認することもあたしの春の風物詩。昨年もそうだったが今年も無事に啓蟄啓蟄。

ご興味のないかたにはどうでもよろしい話から入ったが、こちらは少しはご興味があるかもしれない話をもうひとつ。

用事を足すついでに近所の神社にごあいさつ。

小さなこの神社には浦島太郎に出てくる竜宮城の乙姫さまみたいなイメージのかたがいらっしゃる。

いつものようにごあいさつしてお互いに「いつもありがとうございます」みたいな世間話をして帰ろうとしたときに、「ちょっと待って、ほこりをはらいます」と言われ、そのかたからふーっと息を吹きかけられた。

と思ったら、そこに一陣の風が吹き抜け、なんとも清々しい気分になった。

ありがたくも楽しい体験だったが、ここのところをふりかえり、ほこりまみれだったのであろうことに納得。

やろうやろうと思いつつ、自分を浄めることができていなかったことを反省。

そんなこともあるのね話。

さて本日は、サイキック能力について思うことがあったのでつらつらと。

しばらくまえに書いたものだがあわせてどうぞ。

あたしにはいわゆるサイキック能力のようなものが発現したが、それはそれなりの役割があってのことと思う。

サイキック能力はだれにでもあるものであり、だれしもがなにかしら感じている。

それがうっすらかがっちりか、どの分野が長けているか、どのように感知するか、などはさまざまであろうと思う。

多くの人が「ない」感覚でいることと思うが、ある立場になってみて思うのは、ないからこそ人生は楽しい、ということである。

発現してからあたしの人生がつまらなくなった、というわけではないのだが、こうなってみると、いろいろなことがわからないからこそあれこれと楽しめるのだろうと思うのだ。

ガイドさんたちにいろいろ聞けたりするのは楽しいことではあるけれど、すべてを教えてもらえるわけでもなく(すべてを教えてもらったらこれまた楽しくない)、知らなくていいこともあるわけで、なんというか、欲しいものを買うまでに迷ったりあれこれ想像したりしているときが一番楽しい、みたいなことだ。(無理があるといいますか、そうですか)

あたしにはあたしの役目があるのでこうなっていることに文句もなければ楽しく生きている。

明鏡止水虚心坦懐、日々は平穏であり平安であり、物質次元の人とも非物質次元の存在とも交流できるわけで、なんと幸せなことかと思う。

反面、いろいろな記事で書いているが、物理的にはさておいて、精神的には暇である。高次元存在たちも同じだろうと思う。

そういう経験をしているあたしだからこそ言える。

「ないからこそ人生はすばらしい」は、ある自分の人生もすばらしいので言いすぎかもしれないが、なくても人生はとても楽しくすばらしいものであるということ。

ないからこそ、わからないからこそ、人生の探索は楽しいものであり、泣いたり笑ったり感情のジェットコースターである地球の生活は楽しい。

サイキック能力を発現させたい、ハイヤーセルフやガイドさんたちとつながりたい、スピリチュアルに生きていればそう思うのは当然のことだ。

しかし、ハイヤーセルフやガイドさんたちとは、そのままの自分を愛し受け容れいまを楽しく生きていればつながっている。

サイキック能力については、今生に必要であれば発現するだろうが、必要なければ発現せず、だからといって不幸などではなく自分にとってすばらしい人生だ。

ちょっと余談になるが、あたしはここ1年ほど耳栓が必須である。

音に敏感な人というのは、特定の音域が苦手だったり特定の音がダメだったりいろいろだと思うが、あたしの場合は敏感になったというよりも「いらない」のだ。

もちろん、風や波や鳥のさえずりなど自然の音は心地よかったりするのだが、いろいろな音が邪魔になってしまい、対面以外のセッションをするとき、記事を書くとき、高次元の仕事をしているとき、瞑想のとき、寝るとき、ひとりでカフェにいるときや公共交通機関を利用しているとき、などなど、音がいらないので耳栓をしている。

耳栓は、完全に音が消えたらあぶないので当然していてもある程度聞こえる。(耳栓によりいろいろ)もっと遮断したいときは耳栓のうえからイヤーマフ(射撃練習や工事現場などで用いるヘッドフォン型防音具)をして徹底的に遮断する。

「感じること」に集中するために、とも言える。それが高じて日常のさまざまな場面で音がいらないと感じる。

音がないととても心地いいのだ。

なにかの記事に書いたかもしれないが、厳密にはずっと高周波数のような幾多もの音が常に聞こえているので耳栓をしていても無音ではなく、それらをさらに感じるわけだが。

これは、サイキック能力が発現したから、というだけではなく、「無、なにもない」状態になったことも関係していることだろう。

誤解を恐れずに言うならば、「無、なにもない」ということは、音も色も香りも、なにもいらないのではないかとすら思う。

とはいえ、自然の音に耳をかたむけたり、きれいな植物を見て香りをかいだり、映画を見たり音楽を聞いたり、おいしそうな料理の匂いを感じたり、お香を焚いたり、人と話したり、五感を楽しんでいるし、それらがあるから人生は豊かでもあるのだから、もちろんとてもとてもありがたいものではある。

なのだが、それ以外のものを使える、使うようになったことで五感をいらないと感じるようになるとは思わなかった。

ほかのサイキックの方々がどうなのかはいろいろだろうが、これも経験してみないとわからないことである。

そういうわけで(どういうわけで?)、サイキック能力がなくても(ないほうが)スピリチュアル人生はとてもすばらしく楽しいものであることを熱弁したい春分のあたしである。

love & peace & thanks & blessing!!!

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