自分を愛するということ

更新の間がずいぶんと開いてしまって、あいかわらずの痛恨の極み不徳の致すところである。

さてさて、これまで自己認識や自己受容のこと、いまのそのままの自分を受け容れ愛することが一番大切、みたいなことをさんざん書いてきて、前回の「ハイヤーセルフやスピリチュアルガイドとつながる方法」も、結局はそういうことであると書いた。

手を変え品を変え、結局は同じことを書いているのである。

前回も書いたように、だけれどできない人がとても多い。

いろいろな側面から書けば、それぞれどこかでなにかの気づきとなるのではと書いている。

今回は、そういえばこういうタイトルでは書いたことがなかった、ということで、我が福岡ソフトバンクホークス千賀投手ばりのど直球なことを書いてみたい。(怪我したけれど彼にとって良い方向に進むことをお祈りします)

自分を愛すること。

簡単なようでいて、人によってはとてもとてもむずかしいこと。

セッションをさせていただくようになってからは、現代人類にとって一番むずかしいことなのではないかとすら思う。

それほどまでに自分を愛せない人は多い。

自分を愛していないことによる弊害は数知れず、自分を愛することができれば解決することもまた数知れず。

自分を愛せない理由については、人それぞれいろいろだろう。

育った環境、関わってきた人、人や情報によって思い込まされた固定観念、ジャッジメント、比較、羨望、高い理想、などなど、ひとつだけではなく、いろいろなことが複雑に複合して形成された「自己否定」なのだろうと思う。

これまでもいろいろな記事で、自分を愛すること自分を認めること自分を受け容れることに言及してきているが、ほかのスピリチュアルな情報でも大いに書かれていて、みなさんそんなことは頭ではわかっていて、だけどできない、ということも、あたしはわかっている。

なので、少しでも自分を愛することができるようになるために、なにか提示できんものか、と鼻息も荒くこれを書いている。

なにかの記事にも書いたが、あたしは自分に興味がなかったぶん(好きでもきらいでもなかった)、自分を知ったらわりとすんなり自分を認め受け容れ愛せてしまったので経験としては提示できないのだが、「すべての答えは自分の中にある」のだから、結局自分を深く深く見つめる、ということになるわけで、だとするならば、まずいまの自分を主観的かつ客観的に分析してみてはどうかと思うのだ。

「自分を知る」ときにやることと似たようなものであるが、いまの自分の好きなところ、良いと思うところ、きらいなところ、ダメだと思うところ、他者に思われているだろうこと、評価されているだろうこと、を思いつくかぎり書きだしてみる。

自分が思うことなので主観的で思い込みが大いに反映されるだろうが、そんなことは気にせず考え込まず直感で素直にいま思う自分を書き連ねる。

その書いたものを、客観的に俯瞰してながめてみる。

なるほど、自分は自分のことをこういうふうに思っているんだな、と、あらためて思うことだろう。

書いてみることはめんどうな作業ではあるが、やってみると思いのほか整理することができるし、客観的になることができる。

頭の中であれこれ考えているだけではあっちこっちと考えがめぐり、整理どころかぐちゃぐちゃになって混乱だけが残り、やっぱり自分ダメだ、みたいなことになりかねない。

さて、つぎに書いたものの中で、まずは自分にたいして否定的なところについて分析していく。

自分がなにをもって自分にノーを突きつけているのか、きらいなところ、ダメだと思っているところについて、ひとつひとつどうしてそう思うのか、自分の中を深く探る。

生きてきた環境の中で思い込まされたことや数多ある情報などからの固定観念、他者との比較、理想の自分との比較、ジャッジメント、好きではない親に似ているから、などが浮かびあがってくるのではないか。

たとえば、自分の「せっかち」な部分がきらいだダメだと思っているとする。

まずせっかちである原因も、遺伝なのか幼いころから急かされていたのか、などと原因はあるだろうが、それをきらいであるのはなぜか。

好きではない母親に似ているからなのか、憧れのあの人とはちがうからなのか、せっかちなのはみっともないと思っているのか。

ひとつひとつを、これは植えつけられた固定観念だ、これは他者との比較だ、これは自分の中にあるジャッジメントだ、と分析していく。

固定観念だ、比較だ、とわかったら、その固定観念や比較はどこからきているのか、これまた自分の中を探っていく。

幼いころの環境が固定観念を植えつけたのか、きょうだいと比べられつづけていたからなのか。

そして、その固定観念や比較が無意味なことであると意識する。

意識する、と言われても、とお思いになるかもしれない。その固定観念や比較がどうしても抜けないのだ、と。

だけれど、意識していかないと手放せない。

自分で自分をジャッジしていることを意識しないと、それは抜けない。

「いかんいかん、また自分と他者を比較して判断してしまった。やめようやめよう無意味だ無意味だ」と比較するたびに軌道修正する。

「いかんいかん、またジャッジしてしまった、やめようやめよう無意味だ無意味だ」とジャッジするたびに軌道修正する。

それを習慣づけると少しずつ薄くなっていく。

気づいたら「あれ?最近だれかと自分を比べてないかも?自分をジャッジしてないかも?」となっていく。

他者から思われているだろうこと、評価されているだろうこと、これはほんとうのところどう思われているのか、なにを評価されているのかは、他者によりいろいろだろうし考えたところでわからないので、それも自分の思い込みであり、どうでもいいことだと再確認する。

自分は他者からこう思われているだろう、と自分が思い込んでいるだけである。

その思い込みも手放し、どう思われているか、など気にしないことだ。それぞれいろいろに思われている。それでいい。

自分の好きなところ、良いと思っているところ、これについてはいいと思っているのだからそのまま大いに好きでいればいい。

なんとなく、ここで以前書いていた宇宙の心理を引用。こういったことへ理解を深めると固定観念や思い込みを手放しやすくなる。

●我々は生まれるまえに人生計画(ブループリント)を決めてきている。

●その人生計画に沿うよう学べるよう生まれる環境を自分で選ぶ。

●人生で起こることはすべて必要な経験である。そこから学ぶ必要があるから起こっている。

●人生計画に沿うようスピリチュアルガイドや守護天使が関与して必要な経験を起こすことがある。

●すべての答えは自分の中にある。

●目の前に広がる世界は自分が作っている。すべては自分の意識次第(捉えかた次第)である。

●自分の感情は自分で生みだしている。自分以外に原因はない。

●他者を変えることはできない。自分が変わることで影響を与えることはある。

●みんなちがうのがあたりまえである。

●この宇宙に善悪も優劣も正負もない。したがって常識非常識もない。

アセンションに向けて 〜「続」内省・内観のやり方

そして参考記事はこちら

いつものように、自分を愛せない自分や、固定観念や比較が手放せない自分をダメだと思う必要はない。

自分を愛するために分析していて自分を否定していては本末転倒である。

なかなか愛せないなー、なかなか抜けないなーと受け容れるのみで判断しない。

自分を愛さなきゃ愛さなきゃと頭だけで考え込むこともない。

これまで長年愛せなかったものを、そう簡単にすぐに愛せるものではない。

自分のペースで少しずつ、ゆっくりゆっくりでいい。

今日のそのままのあなたを、昨日よりも少し愛する、明日は今日よりも少し愛する。

それをくりかえしていたら、きっと自分を愛せるようになる。

自分で自分を抱きしめてほしい。

人それぞれいつの日か、それが今生を終えるときだとしても、「自分でよかった」と心から思える人が増えることを願う。

自分も他者も同じように愛する人が増えることを心から願う。

それだけで地球はずいぶんと光り輝くことだろう。

love & peace & thanks & blessing!!!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。必須項目には印がついています *

CAPTCHA