自尊心と自慈心

まったく関係のない話から入るが、セッションや確認事項など、目には見えないものを感じたり高次元存在とお話しする際に、ここのところはペンデュラムでも確認することにしていた。

感じることに自らの観念が影響を与える場合がまったくないとは言いきれず、なんでもOKなので観念もほぼなく自分のことは信じているけれど、念のための確認として。

ところが多くのみなさんが、ペンデュラムでは答えてくれないのだ。なにを聞いてもNoの動き。

お話しする際にはまず、名指しして「ペンデュラムで話してくださいますか?」とお声がけするが、Noを突きつけられること山の如し。みんながみんなではないけれど。

曰く「直接話せるのだから必要なし」、曰く「これでは話しません」などなど、ペンデュラムでの会話を断られる。

そうかもしれんけど、すこーし確認させてくれたってよかろうもん、そげんNo No言わんでも。(ここだけ博多弁でお送りします。祝・四連覇、ありがとうありがとう)

「ペンデュラムではなく直接話せってことですね?」の質問だけにYes,Yes,Yes!!!!!!!!!とくるくる回る。

嗚呼、ペンデュラムだけで楽しくお話ししていたのはもう遠い過去となった。

自分としては若干のセンチメンタルなご報告だが、読んでくださっているかたはきっと、「せ〜の、知らんがな〜」と、みなさんそろって大合唱のことと思う。

そんなこともあるのね話。

さて本題。

自尊心とは「自分を尊ぶ心」であり、「尊ぶ」とは、敬って大切にする、大事なものとして重んずる、ということ。

ありのままの自分を受け容れ、尊重し尊敬し大切にするということ。

自尊心のことを「プライド」と同義で表わす場合があるように思うが、これは厳密にはちがうのではないかと思う。

プライドは「誇り」であり、その感情は外因によってもたらされる。

つまり、出自や所属する集団組織、いろいろなヒエラルキーでの自分の位置(だと思っているもの)、そういった外的な状況に依存している。

自分と他者を大いに比較し区別するものであり、派閥争いを招きがちで、傲慢さや否認を生むものだ。意識レベルの数値は175、ネガティブである。

どこそこの学校にいる自分、どこそこの企業で働く自分、どこそこの団体に所属している自分、社会的に勝ち組(とされている)である自分、などなど、自分の外的状況を他者と比較して優越感に浸る。

外的な状況に依存しているので、その外因がなくなったり崩れたりしたら、たちまち自分の価値がわからなくなる。

魂として成長するにはなかなかの障害となるものである。

○○であるプライド、○○である誇りが、自分の特性を存分に発揮する力になる場合もあるだろうし、それが他者や地域や環境などのためになる場合もあるだろう。○○であるプライドを胸に、幸せな人生を送る人だっている。

魂の進化を俯瞰で長い長い年月をかけてみていく場合、手放すことが必須ではあるが、いつものように、プライドがあるのがダメだとか悪いということではなく、そういうものだという説明。

自尊心は他者との比較ではなく、自分自身、自分だけで完結することだ。

自分を尊重して大切に思っているとして、その評価、判断基準が自分の外的な状況(出自、親や親族、学校、会社、結婚相手、できのいい子ども、など)であるなら、それは自尊心ではない。

どのような環境にいようともどのような状況であろうとも、そのままの自分をだれとも比較することなく評価することなく、いまのあるがままを尊ぶ。

自分を敬い、自分を重んずる。

もうひとつ、「自慈心」。

自慈心とは「自分を慈しむ心」であり、「慈しむ」とは、かわいがって大切にする、ということ。

ありのままの自分を受け容れ、優しく愛でて大切にするということ。

自尊心と同じく、外的な状況は関係なく、自分だけで完結する。

どのような環境にいようともどのような状況であろうとも、そのままの自分をだれとも比較することなく評価することなく、いまのあるがままを慈しむ。

自分に優しく、自分を愛でる。

どちらも、自分に対する外からの評価や外からこう見えているだろうと思い込んでいることは関係なく、純粋にいまの自分がいまの自分をどう思うか、である。

あなたは、自分を尊び自分を慈しんでいるだろうか。

love & peace & thanks & blessing!!!

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