自分に正直であるということ

近ごろ突飛系な記事が多かったが、本日は地に足がついた記事を。

これまでいろいろな記事で言及しており書いたような気になっていたが、そういえば書いていなかった大切なこと。

いろいろなかたとお話ししたり、世の中を見渡してみると、自分に正直でない人がとても多いと感じる。

セッションでもたくさんのかたにお伝えした。

「自分に正直でない」といっても、いろいろなパターンがあり人それぞれだ。

・自分の正直な気持ちが言えない、言わない。

・自分の気持ちは言うが、環境的要因などによりやりたいことができていない。

・自分の気持ちも言わないし、やりたいこともできていない。

・そもそも「正直な自分」がわからない。正直な気持ちもわからない。やりたいこともわからない。

などなど。パターンは無数にあるだろう。

生まれてごくごく小さなときは正直な自分であったはずだ。

それがさまざまな要因で、正直な自分でいられなくなる。そうなった原因は人それぞれいろいろなので、内省・内観で自分の中を探ってみると見えてくることがあるだろう。

いつものように、自分に正直でないことがダメだとか悪いとかではない。なにを選ぼうとみなさんの自由なのだが、自分に正直に生きると楽ですよ、というご提案。

案外多いのが、「正直な自分がわからない」。

だれしも社会的生活を生きていて、所属するコミュニティーも家族、仕事関係、友人関係などいろいろある。そのそれぞれで、こっちの顔、あっちの顔がある。

こっちの友人関係ではリーダー役なのに、別の友人関係では頼りない役、など、特に友人関係では学生時代の友人、社会人になってからの友人、子どもを介しての友人など、それぞれで別の顔になったりすることもあるだろう。

そのどれもが自分の一部なのであって、それで楽しく生きられているのならなんの問題もないのだが、なんとなくモヤモヤしたり疲れてしまったりする。

「素の自分」などという言葉もあるくらいだから、なにがしかの演技をしている部分があるはずだ。それは社会生活を送っていて相対する人がいろいろなのだからある程度はあたりまえのことである。

あたりまえのことではあるが、ふとしたときに「どの自分がほんとうの自分なのだろう?」などと自問自答する。

「この人たちと一緒にいるときが一番素かも」と自分でわかるなら、それが「正直な自分」に近いのだろうが、これがわからない人も多いのではと思う。

また、なにかやだれかに相対したときに、自分の気持ちがわからなかったり、自分の意見がわからなかったりする場合もあるだろう。やりたいことや楽しいこともわからない。これはもうまさに「自分を知らない」である。

このように「正直な自分」がわからないのであれば、「自分に正直であること」になかなか向かえないので、まずは「自分を知る」ことをおすすめする。

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「自分に正直であること」は「自分に嘘をつかないこと」だ。

生きていくうえでなにをおいても大切なことであり、そうでなければ自分として生きている意味を見失うのではないか。

正直な自分でいなければ、自分である必要がないのではないか、とまで言いたくなる。

せっかく自分で生まれてきたのだ。

大いに「そのままの自分」で生きていただきたい。

「演技」という言葉を使ったが、自分を装ったり、求められる役割を演じたり、ある程度はしかたがないかもしれない。そうしなくては生きていけない、などと考える人もいるかもしれない。

それはもうそれぞれの自由なのであるが、自分を装わずとも役割を演じずともうまく生きていける。

自分を装うこと、役割を演じることの最たる原因は「恐れ」だ。

正直な自分の気持ちを言わない、言えないことも同じだが、正直であったら嫌われるかも、変だと思われるかも、相手が気を悪くするかも、関係が壊れるかも、などなど、恐れがあるから、こういう感じならOKだろうと思う自分を装ったり、求められているだろうと思う役割を演じる。

それで自分が心地悪くないのなら、モヤモヤしないのなら、なんの問題もないのだが、たいていなんらかの不調として現われる。精神なのか肉体なのか。

これまでもさんざん書いているとおり、人はみんなちがってあたりまえで、感じることもそれぞれである。

同じ人を「親切」と評する人もいれば、「お節介」と評する人もいる。

どのように自分を取り繕っても、人によっていろいろに映り、好かれたり嫌われたりする。万人に好かれることなどないのだ。

取り繕った自分であっても嫌われることはあるわけで、だったら正直な自分で嫌われるのも同じである。なによりも取り繕うより正直なほうが自分が楽だ。

親しい人だと関係が悪くなりたくないから、なおさら相手に合わせたり自分の思いを飲み込んだりするが、本来であれば、親しい人ほど正直な自分で相対しないでどうするという話だ。

逆の立場になれば、相手にも取り繕ったりせず正直な自分でつきあってほしいと思うのではないか。相手だってそう思っている。

正直な自分で相対して、離れていく人がいればそれまでのご縁だ。残念だがそういうものだ。これまでのご縁に感謝して今後の幸せを願うということ。

離れていく人が多くだれひとりいなくなった、などの場合は、正直な自分の物言いや振る舞いを見つめる必要はあるだろう。

正直であることは感情をぶつけたりわがまま放題好き勝手にやる、ということではない。根本には愛と感謝と敬意があってこそ。相手も尊重したうえで正直な自分で相対する。

わかってくれる人はいるし、思っているより周りは気にしていない。こちらが思いきって正直な自分をだしても、反応はあっけなかったりする。自分が思っているほど周りは自分のことなど気にしていないのだ。

周りは思ったほど自分のことなど気にしていないので、大いに正直な自分でいてほしいわけだが、正直な自分でいるためには、いまのそのままの自分を「これでいいのだ」と認めていないとこれまたむずかしい。

自分のことを、ダメだ、こんな自分イヤ、などと思っていると、他者の目にどう映るか気になり人前で自分を取り繕う。

なによりも自分がそのままの自分を認めていないと、これでOKだろうと自分が思うような自分を作る。

そのままの自分を認め受け容れられると、いつでも自分は自分でOKなのだから、どこにいようとだれといようと、そのままの自分でいられる。

もちろん、そのままの自分であってもそれぞれ手放すことはあるだろうが、まずはいまのそのままの自分を認め受け容れてからの話。

嗚呼、やっぱり自己認識、自己受容。

すべてはつながっている。

参考記事はこちら

いまのそのままの自分を認め受け容れ、そのままの自分で生きること。

それがこの世に自分として生をうけ誕生して、もっともやってほしいこと。

そのうえでいらないものを手放していく。どんどんシンプルになっていく。

あなたはいまのそのままでいい。

いや、そのまま「が」いいのだ。

love & peace & thanks & blessing!!!

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