祈られる側になり思うこと

ここのところ更新が滞っており、不徳の致すところ痛恨の極み。

セッションが混んでいたりもしたのだが、なんでだか物質的事象が重く書けないでいた。忙しいわけではなく大変なわけでもなく辛いわけでもなく、なんというか物質的事象が重かった。(わかりにくいことは知っています)

さて、みなさん、2020年の夏至はいかがだっただろうか。

あたしはといえば、お知らせしていた夏至のエッセンスをせっせと作っていたわけだが、そのエネルギーは「すっきり澄みわたったさわやかなそよ風」のようで、それに加え「始まる前のひとときの静寂、静謐ながらも凛として力強い」新月のエネルギーとあいまって、パワフルというよりも、すっきりピンとした感じだった。(わかりにくいことは知っています)

あまりよく知らないけれど、ちまたでは今年の夏至は大騒ぎのようで。高次元は落ち着いたものだが、星廻りとかそういうものか。

それぞれがそれぞれの状況で感じるところがあったろうと思う。

そして早速夏至エッセンスのご感想をいただいたのでVOICEを更新。

みなさんいつも掲載に快くご了承いただき、ほんとうにありがとうございます。そして感想は強制ではありませんので、無理に書いていただく必要はないということを書き添えておきます。

VOICE

そういえば、前々回「愛の石」が戻ってきたことを書いたが、「愛の雫」のことが気になっているあなたへ続報。(そんな人がいないことは知っています)

記事では戻ってこないと感じると書いたが、そのあと記録者スナオさん著「魂の系統 染の章」に書いてあるから戻ってきそう、となっていたら、前々回記事公開数日後に戻ってきた。あっけなく。大天使ラファエルさんが本気をだしたらしい。

というわけで、あたしがいま持っているアイテムは「愛の石」「愛の雫」。(いばっているわけではありません)

ひとりでわーわー言っていたのも、これで落ち着くだろう。失礼しました。

それにしても「魂の系統」、あたしのこともちらちら書いてあって恐縮しつつ、そうなるのか、と楽しみなこともあり。

このサイトを訪れてくださっている方々もお読みいただいて、ご感想をお寄せいただいたりしてとてもうれしい。そのときどきで気づくことがあるだろうから、くりかえしくりかえし読んでいく書である。

ご興味のあるかたはこちらの記事を。

歴史書「魂の系統」三部作発売のお知らせ

どうも今回は雑多にいろいろ書いてしまっているが、ついでにもうひとつ。

いまどきインターネットを利用する際、スマホでというかたが多いだろうと思う。かくいうあたしだってそういう場合が多い。

サイトを運営しているかたはよくわかると思うのだが、パソコンとスマホやタブレットでは表示がちがう。スマホやタブレットで見る場合は小さな画面で見やすいように変換される設定になっていることが多い。

もちろん見やすくなるのでそれでいいのだが、このサイトについては、もしよかったら一度パソコンで訪れてみてはどうかしらというご提案。

ほかのサイトでもそういう場合があると思うのだが、パソコンで見るほうが本来のエネルギーが伝わるのではと思っている。このサイトでは特に。

前から思っていたのだが、そんなことはご覧いただく方々の自由なので、パソコンで見る人スマホで見る人タブレットで見る人、それぞれでもちろんいいわけで、あたしがとやかく言うことではないのは承知のうえだけれど、なんとなくのお知らせ。

さて、雑多な前置きが長すぎてなにを書くのか失念しそうになるが気を取り直して。

以前、祈られる側になったことを自覚しろ、と言われたことを記事にした。

その記事はこちら。

自覚しろとのお達し

その中で、超高次元存在その1こと「存在ノ神」(記録者スナオさん著「魂の系統」より)から「私の代わりをしてもらう」とのお達しがあったことを書いた。

で、新たな仕事として、代わりをやっているわけである。

どんな仕事かは書くのを控えるが、先日、存在ノ神から「仕事しろ!」となかなか強く言われてしまい。

冒頭でふれたとおり、ここのところ物質的事象の重さで、代わりの仕事をすることになんとも気がいきにくかった。

すべてを流れにまかせているので、それはそれでそんなこともあるさね、と流れまくっていたのだが、ええかげんにせえ、ということのようだ。

というわけで、一日に最低でも1回は代わりの仕事をする時間を設ける、ということを話し合いで決定し、遵守しているわけである。

その、代わりの仕事をしている中で感じることを書こうというのがこの記事の趣旨なのだが、関係ないことで長くなっているのはご容赦いただきつつ、やっと書く。

代わりの仕事をしていて「願いが叶う」「思考が現実になる」ということについて、つらつらと思ったのである。

くわしい仕事内容を書かずなので、なんのこっちゃになるかもしれないが、内容のことはあまり関係ないので気になさらず。

ずいぶんまえに「思考が現実を作るのか」という記事を書いていて、それはそのときの「いま」に思ったことを書いたわけだが、いまのあたしはそのときのあたしとは変容していて、役割も若干変化している。

その記事の内容はそれとして、いまの役割で思うこと。

いまのあたしは、なにかを願ったり祈ったり望んだりすると、それが現実になる。

たとえば、宝くじが当たる、と思えば、決めれば、当たるだろう。

たとえば、あのイカしたメンズとよろしくやる、と思えば、決めれば、よろしくやれるだろう。(古い表現で失礼します)

そうなのだけど、そんなことは思わないのである。いまのあたしはそんなことは望まない。

客観的にみれば、なんともったいないことかと思う。なんでも望みどおりになるのに。(たぶん)

だけれども、そういったことを望まないからこそ、こうなったのだろうなと思うのである。代わりの仕事をまかせてもらえたのだろうと。

どういうことかというと「無、なにもなくなった」わけで、ということは、利己的な望みもないのだ。

利己が一切なくなったと思ったら叶う望み。

祈られる側になり時折祈りが聞こえてくるが、聞こえてくる祈りはたいていだれかやなにかを想う祈りだ。

思考(直観)が現実になるわけだが、その思考の質とはどういうものなのか。

少しばかりでも考える機会になればと思う。

無になったおまえはなにを望むのか?、と聞かれれば、無なわけで厳密にはなにもないということなのだが、地球に暮らす人間としては、みなさんが楽しく生きること、と答える。

love & peace & thanks & blessing!!!

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