アセンションに向けて 〜自分で歩いていくということ

先日「自己受容」について書いたのだけど、本日はそこをもう少し掘り下げるというか別の側面というか、経験を交えて書いてみたいと思う。

自己受容の記事はこちら
アセンションに向けて 〜いまの自分を認めるということ

自己受容が「そのままの自分を受け容れるということ」というのは頭ではわかるが、どうやって受け容れればいいのか、自分にはダメな部分や嫌な部分があるもの、という人は多いだろう。

なぜダメだと思ったり嫌だと思ったりするかといえば、幼いころ近くにいた大人の影響や育った環境、社会情勢などによって、不要な固定観念を植えつけられたことによる思い込みがほとんどかと思う。

○○は人間としてダメなことだ、○○は常識的ではない、そういうとき普通は○○でしょう、○○は女(男)としてほかよりも劣っている、○○ちゃんは○○ちゃんより悪い子だ、あの家庭は○○だからあまり関わらないほうがいい、○○ちゃんはできるのにあなたはなぜできないのか、などなど、日常のあらゆる会話から思い込まされる。(大人になり親となったあなたは自分の子どもに思い込ませている。)

これはもうしかたがない。その中にも学びがあり体験することが必要だったのだ。

しかしながらこの記事を読んでいるということは、その思い込まされたものを手放せるということ。

自己受容するには、その長年思い込んでいることを自分の中からなくしていくことが先決である。

○○はダメ、○○は劣っている、普通は○○だ、○○は正しい、○○なほうが優れている、世間の常識、など思い込んでいることへの意識をちょっと変える。

みんなちがっていて人の数だけいろいろなのだから、普通も常識もない。どちらが優れているとか劣っているとかない、どちらが正しいとか正しくないとかない、あたしもあなたもあの人もこの人もみんなオッケーなのだ。

たくさんの思い込みはそうたやすく手放せることではないが、いちいち意識していればいずれは思い込みで判断しなくなってくる。

参考になりそうな記事はこちら
ジャッジメントを手放す

さて、そんな思い込みが薄らいできたら自然と自分を受け容れられるようになってくるはずだ。思い込んでいた「ダメ」なことなどないのだから。

ここで少しあたしの経験を。

いろんな記事で書いてきたけれど、あたしは自分に興味がなかった。なので、もちろん自己受容していなかった。

受け容れるもなにも、自分を知らなかったので自分を知ることから始め、自分のことを客観的に分析した。

並行して、いろんな思い込みは幻想にすぎないこと、自分も他者もすべてはいまのそのままでオッケー、などを意識することにした。

自分に興味がなかったため、自分のいいところダメなところなどもそう考えたことがなく、そういう意味では自己受容しやすかったかもしれない。

自分が生まれるまえのことからこれまでの人生を客観的に眺めて自分を知って、いまの自分はこういう人間なんだなと認識したらそれがそのまま自己受容につながった。こういう人間だったんだ、とすべてを受け容れられた。

「自分ダメだな」と落ち込むことがあるならば、なにかしらの思い込みがある。

自己受容できると、ひとりで歩いていける。

もちろん縁のある周りの人たちの助けや協力や楽しさの共有など、お世話になったりお世話したり、人生ではいろんな人とさまざまな関係を築いて歩んでいく。それはとてもありがたく尊くかけがえのないものだ。

しかしながら、自己受容できていると、それがあろうがなかろうが大丈夫なのである。

乱暴な言い方だが、他者がいなくても平気なのだ。

自己受容できていると、他者にうつる自分や他者に関わっている自分が気にならなくなる。他者に承認してほしい、認めてほしいと思わなくなる。なによりも自分が自分を認めているのだから承認欲求などめばえない。

他者との関わりの中で、他者の状況に振り回されることもない。「他者との関わりの中での自分」ではなく「自分は自分」なのだ。

ありがたくも縁あって関わってくれる人がいるならば、全力で感謝しそのままの自分で一緒の時間を楽しんだり、困っているならばなんとか力になりたいと思うし、なにかの理由で周りから人がいなくなったとしても、そういうものかと落ち込むこともうろたえることもない。

自分がそのままの自分でここに在る。

だれかに認めてもらわなくても、だれかに頼らなくても、自分ひとりで歩いていける。

なにかの記事で書いたが、あたしは山の中でひとりきりだれにも会わず生きていけるだろう。もちろんだれかしらご縁のある人たちと関わりながらも。どちらでも変わらぬ自分でいられる。その状況も含めて受け容れることができるから。

誤解のないように書いておくが、ひとりで歩いていくべきだ、などということではない。ひとりでもひとりじゃなくても大丈夫だったら、どんな状況であっても心持ちが変わらなかったらラクですよ、ということだ。

それには自己認識、自己受容、ということ。自分が自分を認め受け容れたら、それだけでひとりでも幸せを感じることができる。

もしかしたら、冷たいように思われるかもしれない。そうではなく宇宙のすべてに愛と感謝なのである。それがあたりまえの状態だから意識すらしなくなる。ひとりだってひとりじゃなくたって、それも変わらない。

いつものように、自己受容できないのが悪いわけではないし思い込みがあるのが悪いわけでもない。

そして、だれかに認められたい頼りたいと思うことが悪いわけでもない。

ただ、いまはそうである、というだけだ。

自己受容せずに生きていく、というならそれも良し。なにを選ぶかはみなさんの自由。

自己認識、自己受容できたら人生怖いものなし、ではあるのだが。

love & peace & thanks & blessing!!!

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