怒りの正体

最近なぜだか怒っている人に遭遇するので書けということかしらん、と思い本日は「怒り」について書いてみたい。

「怒り」とはなんだろうか。

だれかが言ったりやったりしたことに感情的にカーっと怒りがこみ上げる、体制側のやることに怒り批判する、お店の人の態度がなっていないと怒る、ネットのニュースを見ては怒る、有名人の発言に怒り炎上させる、などなど、いつの日も人間は怒っている。世界中でひどいことが起きていて、そりゃ怒るでしょう、と思うかもしれないが怒って解決するものではない。

なにがそんなに人々を怒らせるのか。

上記のように怒る場合は、自分の中の不要な固定観念や思い込みが原因だ。自分の考える常識からはずれているから怒る。お店の人の態度がなっていないとか有名人の発言がおかしい、などと怒るのはそういうことだろう。

だれかが言ったりやったことについて怒ることも同じ。それがダメだと思っているから怒る。たとえば自分がだれかから批判されて、そのことに怒る。そんなことを言うなんてどうかしていると怒る。そんなことを言うなんてどうかしている、というのは自分の固定観念であり思い込みだ。どうかしている、とみんながみんな思っているわけではない。ほほー、そういう意見もあるんですねと思う人だっている。

同じく、そんなこと言われる筋合いはないと怒る。そんなこと言われる筋合いはない、というのも固定観念であり思い込みだ。別の視点から見ると言われる筋合いがあるかもしれない。あらー、あなたはそう思うんですねというだけのことだ。

子どもが学校でなにかやって呼び出されたとき、どうしてそんなことをするのと子どもを怒る。そんなことがダメだというのは固定観念であり思い込みだ。ダメだと頭ごなしに怒るのではなく、どうしてそういうことをやったのか理由を聞く。ダメなんかじゃないかもしれない。

体制側のやることに対して怒り批判する、というのも正義感という名の固定観念だ。体制側のやることについて疑問があるから意見する(怒りの感情を交えずに)、ということと、怒り批判する、というのではエネルギーの質がちがう。似ているけどまったくちがう。

怒りのエネルギーの周波数は低い(重い)。自分も周りもその影響を受ける。

いつものように、怒ることがダメだということではなく、できることならば怒りを手放したほうが自分も周りもラクになる、という話である。

そして、怒りの主な原因である固定観念や思い込みは、その他のネガティブな感情の原因でもある。不要な固定観念や思い込みを手放すとそうとう自由に、ラクになる。

スピリチュアルに目覚めた人は、表面上そんなに怒らないのではないかと思う。と思ったけれど、以前はあたしよりもスピリチュアル的に進んでいるだろうと思っていた人でも怒っていたことを思い出した。怒りはそうそう手放せないのかもしれない。

また、上記のようにカーっと感情的になったりすることが少ない人でも、奥深くに自分でも気づかないような怒りが隠れていたりする。特に身内に対してなど忘れていることでも実は消化できていないことがあったり。ときには過去生の怒りが残っている場合もある。

そして怒りというのは、恐れや恐怖や不安からくる場合も多い。

傷つけられるかもしれないという恐れや不安、失うかもしれないという恐れや不安、脅かされるかもしれないという恐れや不安、負けるかもしれないという恐れや不安、失敗するかもしれないという恐れや不安、などなど。

怖くて不安だから怒る。

じゃあどうやって手放すのか。

アンガーマネジメントということではない。怒りが込み上げたときにそれをコントロールするというのはもちろん一つの対処法だ。自分や周りにとって良い結果を生むだろう。

しかしながら、あたしがおすすめしたいのは、怒り自体を手放すこと。怒りの感情を抱かなくなるよう進化すること。

そんなことができるのか、と思うかもしれないができる。いまのあたしに怒りの感情はない。昔からあまりなかったけど、アセンションしたいまはまったくない。

どんな感情でも手放すやり方はいつも同じだ。なぜ怒りを抱いたのか自分の中を見つめる。

不要な固定観念や思い込みならば、それを解放する。これって自分の勝手な思い込みだよなー、と意識する。いろんな意見があっていろんな考えがあるよなー、と意識する。世間的に常識と思われていることも集団固定観念であると理解し意識する。

不要な固定観念や思い込みが原因と思われることがあるたびにそう意識していると、徐々に頭もやわらかくなり他者を尊重できるようになってくる。いちいち腹を立てることも少なくなっていく。

自分の奥深くに隠された怒りや恐れや不安の場合は、なおさら深く自分の中を見つめる。幼い頃からこれまでのこと、両親や兄弟、親戚、先生や友だちなどに言われたなにげないひとことが原因かもしれない。なにかを目撃したことが原因かもしれない。とても傷ついたのかもしれない。

思い当たることが見つかったら、そのときの自分を癒す。

「あのときは腹が立ったね、傷ついたね。あんなこと言われたのによくがんばったね、もう大丈夫だよ。」あるいは「あのときあんなの見てしまって怖かったね、怖かったのによくがんばったね、もう大丈夫だよ。」そのとき関わった人などに「あなたを赦します。経験させてくれてありがとうございます。」と心の中で言う。

思い当たることを見つけるのに時間がかかるかもしれないが、自分の中を探りまくる。自分の中に必ず答えがある。

いつも書いているとおり、怒りがある自分をダメだと思う必要はない。いまの自分には怒りがあるな、と認めるだけ。

そして、人生には怒りが必要だ、と思うならそれも自由。怒りがある限りアセンションはしないし人間としての進化は進まないけれど、今回の人生ではそういう経験が必要なのだろうからそれも良し。

怒りのないあたしは、怒りがある人に近づきたくないけれど遭遇すれば愛を送る。癒されるといいなと思いながら。

love & peace & thanks & blessing!!!

怒りの正体」への3件のフィードバック

  1. 以前お世話になった者です、その節はありがとうございます。
    怒りから解放されている状態とはどんな感じなのでしょうか。今怒りを感じていないとおっしゃっていますが、Ascended master lifeさんは怒りを感じないのであれば何を感じるのでしょうか。たとえば極端な話、自分に向かって攻撃してくる人に面したときも、その人への愛しか感じない、ということなのでしょうか。

    1. mkさん、
      コメントをいただき、ありがとうございます。
      ご無沙汰しています、お変わりないですか?
      その節は、こちらこそありがとうございました。

      怒りが起こりそうな場面でなにを感じるのか、ということかと思いますが、そのできごとにたいしての「感想」です。
      カーッと感情が動いたりはせず「あら、こういうことになったか」「自分のここがこの状況を生んだんだな」「この経験で教えられたことは?」というような感じです。

      自分に向かって攻撃してくる人に面した場合、いまのところだれからも攻撃されていませんので想像するしかありませんが、上記と同じで「感想」を持つかと。
      攻撃のシチュエーションにもよりますが、突然であればびっくりはするでしょうし感想を持つひまもなく死ぬのかもしれません。
      たとえば通り魔みたいな予想していなかった攻撃のとき「そうきたか」という感想を持つような気がします。
      攻撃してくる人へではなく、自分の人生でこういう経験が待っていたか、という意味でです。

      攻撃してくる人にたいしては「愛しか感じない」というのは少しニュアンスがちがいます。
      それはそうなんですけど、愛はいつでもなににでもだれにでも感じているのがあたりまえなので意識していないんです。
      説明がむずかしいところなのですが、「愛しか感じないとわざわざ思わないけど、相手にたいしてもちろん愛はもっている」といったところでしょうか。
      微妙なニュアンスですね。伝わるでしょうか。
      そして、私から相手に愛のエネルギーを送るだろうと思います。

      もともとあまり腹が立つことが少なかったのですが、ますます怒りが起こりそうな場面に遭遇しなくなりました。
      はたから見れば遭遇しているのかもしれませんが、自分に怒りがないので遭遇していないと感じます。
      「目の前に広がる世界は自分が作っている」「他者は鏡」を実感しています。

      わかりやすくお伝えできればと思いましたが、いかがでしょう。

      ありがとうございました。

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