赦すということ

なんだか、自分の中でひとつの区切りというか、大きなことが終わり、今年から新たに踏みだす予感がぷんぷんしていて、妙なすっきり感がある。
2019年は相当な変化の年になるのだろうと楽しみである。

そんな中、本日は「赦すこと」についての考察を。

「許す」と「赦す」どちらを使ってもいいと思うのだが、個人的に「許す」は軽く「許可する」というようなことも含まれる感じなので、ここでは「赦す」で統一する。

「赦す」だと宗教的に感じたり、重大な罪に向けてだったり、というように若干意味が重いように思う。あくまでも個人の見解だが。だからといって、宗教的だとか重い話をしようというのではない。

とかなんとか言ってるが、ほんとはどちらでもいい。通常「あの人許せない!」みたいなときは「赦せない」って表現しないだろうから。嗚呼、すばらしきかな日本語。ひらがなで書くのがいいかも。

さて、みなさんはゆるせない人とかことってあるだろうか?

あたしの場合、昔からなにかに腹を立てることが少なくて、人に対してもできごとに対してもゆるせないと思うことがあまりなかった。

学生時代にある日突然クラス全員から無視されたときも、首謀者に対してゆるせないなどとは思わなかった。どうしてこの状況が生まれたのか、みんなで話し合ったのかしら、女子だけならまだしも男子もなんてどうやってまとめたのか、など、そういう感想だった。

ゆるせないという感情に近いただ一人といえば、父親だろう。ゆるせないというほどまでではないけれど、好きではないし自分にとって必要のないというか。実際通常ならゆるせないと思うだろうこともあった。

スピリチュアルな生活になって、そうはいっても感謝しないと、などと頭では思っていたけれど、いろいろあったからそうそう心から感謝できたりしない。

感謝は無理矢理するものではないので、それはそれとして過ごしていたが、自分のことを知るために両親のことを客観的に観察し、受け継いだ特性などを考察していくうちに、自分が選んだ両親なのだからたくさん学ばせてもらったのだ、と少し感謝の念がめばえた。

それからアセンションまでの修行の日々の中で、少しずつ少しずつ父親に対するネガティブな感情を手放すことができ、いまやすっかりなにも感じない。感謝あるのみ。

なにかよくないできごとがあって、それを誘発した人にゆるせない感情が起こり、だけどその激しい感情は一時的で、その後はその人をゆるせないとまでは思わないけど、なんとなく避けているうちに疎遠になる。

通常だとそういう感じが多いのではなかろうか。なにかの拍子に思い出して、「あのときは腹立ったー。やっぱりあの人ダメだわ」というように。

一生憎むとか恨むにまで発展する「ゆるせない」。たとえば、自分の子どもがだれかに傷つけられたり殺された場合。あたしには経験がないから想像するしかないのだけど、これ以上の困難はそうそうないだろう。当然、犯人のことをゆるせない。

自分の大切ななにかをだまし取られるとか、ひどい裏切りにあうとか、ほんとうの意味でのゆるせない状況はいろいろあるだろう。

そんなふうに絶対ゆるせないような状況において「すべてを赦す」とはどういうことなのか?

昔から腹を立てることが少なかったからあまり説得力がないかもしれないが、一番はそのできごとに対する執着を手放すことだと思う。

執着している理由はさまざまだが、自分の場合はどんな理由なのか、自分に問いかけわかったら手放す。

「あなたのおかげで学べました。あなたをゆるします。ありがとう」と、とりあえず心の中で言ってみる。本心じゃなくてもいい。言ったあとは、もう済んだことだとそのできごとにフォーカスするのをやめる。腹が立つことがあるたびにやってみる。

腹を立てたこととか、ゆるせないと思った自分を責めたりダメだと思ったりする必要はない。その感情が起きたことは今のありのままの自分なのだから。そういう感情を抱いたな、と認めるだけだ。

ちょっとしたケンカだとかはそれでいいかもしれないが、子どもを傷つけられたりしたというとてもじゃないけどゆるせない場合。

基本的には同じである。その感情への執着を手放す。そのできごとを忘れるということではない。辛い悲しい苦しい憎いになるべくフォーカスしない。

経験がないからそんなことを言えるのだ、と思われるかもしれないが、たとえば今、大切な人を殺されたとしても犯人をあたしは赦すだろう。もちろん悲しいから大いに泣くだろうし絶望的な気持ちになる。だけど、犯人をゆるせない、とは思わない自信がある。

あたしの今回の人生は自分で決めてきたことで、大切な人が殺されることも計画していて、それによって学ぶことが必要だったのだ、と思える自信がある。

辛い悲しい苦しい憎いにフォーカスし続けていると、いつまでもそのままだ。それどころかどんどん辛くなるだろう。そういう経験をさせてくれた亡くなった大切な人に申し訳が立たない。そのできごとで必要な学びなのか浄化なのか、とにかくなにかを得たのだ。もちろん、失ったものはとてもとても大きいのだけど。

そして犯人は捕まれば法で裁かれるだろうし、なによりも重いカルマを背負う。そのカルマはいつか返済しなければならない。その返済はそうとう辛いものとなるだろう。

と、長々と書いてきたが、ゆるすもゆるさないも自由である。無理してゆるすものではないし、ゆるさなければならない、と思い込む必要はない。

ただ、怒りとか恨みとか憎しみを抱えたままでは進化は望めない。進化を望むのであれば、なるべく手放せるよう意識していくべきだろう。

なんだか怒られそうな、賛同を得られない話になったような気もするが、きっと最終的には「赦す」という概念すらなくなる。なにかに怒ったり腹が立ったりすることがないのでゆるすもゆるさないもない。オールOKである。

love & peace & thanks & blessing!!!

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